慶大が勝ち点2 東京六大学野球第6週
共同通信配信より
慶大が勝ち点2 東京六大学野球第6週(共同通信) - Yahoo!ニュース
東京六大学野球リーグは20日、神宮球場で第6週の3回戦1試合が行われ、
慶大が立大を4―3で下して、2勝1敗で勝ち点2とした。
慶大は2点を追う七回に代打今津が3点本塁打を放って逆転した。
【関連記事】
共同通信配信より
慶大が勝ち点2 東京六大学野球第6週(共同通信) - Yahoo!ニュース
東京六大学野球リーグは20日、神宮球場で第6週の3回戦1試合が行われ、
慶大が立大を4―3で下して、2勝1敗で勝ち点2とした。
慶大は2点を追う七回に代打今津が3点本塁打を放って逆転した。
【関連記事】
2025秋季リーグ戦
一般財団法人 東京六大学野球連盟 配信より
2025秋季リーグ戦
一般財団法人 東京六大学野球連盟 配信より
https:/
試合日程&結果 / 勝敗表
個人打撃ランク
個人投手ランク
全個人成績
慶大 - 立大 3回戦
10月20日(月) 第1試合 試合開始13:01 終了15:44 観衆 1,000人
[球審]水沼 [塁審]浅田・内海・瀧口 [外審]・
16:06 更新
ベンチ入りメンバー
個人成績詳細
写真・コメント
KEIO
B S O
RIKKIO
打 安 点 振 球
[8] 丸田 (2 慶應) 4 1 0 1 0
[6] 林純 (2 報徳学園) 4 0 0 0 0
[3] 渡辺憩 (2 慶應) 4 1 0 0 0
3 今泉 (4 慶應) 0 0 0 0 0
[7] 常松 (4 慶應湘南藤) 3 2 1 0 0
7 一宮 (1 八千代松陰) 1 0 0 1 0
[9] 横地 (3 慶應) 1 0 0 0 3
[4] 竹田一 (1 聖光学院) 3 0 0 0 0
[5] 八木 (2 慶應) 2 0 0 0 0
H 今津 (3 旭川東) 1 1 3 0 0
5 服部 (2 星稜) 1 0 0 0 0
[2] 吉開 (3 慶應) 2 0 0 0 0
2 加藤 (1 慶應) 1 0 0 0 0
[1] 外丸 (4 前橋育英) 1 1 0 0 0
H 山本勇 (1 慶應湘南藤) 1 0 0 0 0
1 渡辺和 (3 高松商業) 1 0 0 1 0
1 水野 (2 札幌南) 0 0 0 0 0
計
30 6 4 3 3
K 0 1 0 0 0 0 3 0 0 4
一 二 三 四 五 六 七 八 九 計
R 0 0 2 1 0 0 0 0 0 3
慶大が接戦を制し、勝ち点を2とした。
[2回表]慶大・常松のソロで1点先制
[3回裏]立大・落合の適時二塁打で逆転
[4回裏]立大・小林隼の適時打で1点追加
[7回表]慶大・今津の3ランで逆転
KEIO RIKKIO
外丸、●渡辺和、水野 投 手 ○小畠、斎藤、竹中、田中
吉開、加藤 捕 手 落合
常松1号ソロ(2回)、今津2号3ラン(7回) 本塁打
三塁打
二塁打 落合
竹田一 犠 打 小畠、鈴木唯、桑垣、北田大
併 殺 1
3 残 塁 13
盗 塁
林純 失 策
暴 投
捕 逸
ボーク
打 安 点 振 球
[7] 山形 (4 興南) 4 1 0 1 1
[6] 小林隼 (2 広陵) 4 1 1 0 1
[9] 鈴木唯 (4 東邦) 4 1 0 0 0
[5] 丸山 (3 大阪桐蔭) 5 0 0 0 0
[2] 落合 (3 東邦) 3 2 2 1 2
[4] 村本 (2 大阪桐蔭) 5 2 0 0 0
R 原野 (2 國學院栃木) 0 0 0 0 0
[3] 西川 (4 神戸国際大) 3 1 0 0 0
3 河野 (2 広島新庄) 1 0 0 1 1
[8] 濱本 (1 広陵) 1 0 0 1 0
H8 桑垣 (4 中京大中京) 2 0 0 1 0
[1] 小畠 (4 智辯学園) 1 0 0 0 1
1 斎藤 (3 仙台育英) 0 0 0 0 0
1 竹中 (4 大阪桐蔭) 0 0 0 0 0
H 北田大 (4 広島新庄) 0 0 0 0 0
1 田中 (2 仙台育英) 0 0 0 0 0
計
33 8 3 5 6
回 球
数 打
者 安 振 球 責
外丸 (4 前橋育英) 4 68 21 7 2 1 3
渡辺和 (3 高松商業) 2 2/3 33 10 0 2 2 0
水野 (2 札幌南) 2 1/3 46 12 1 1 3 0
計
9 147 43 8 5 6 3
回 球
数 打
者 安 振 球 責
小畠 (4 智辯学園) 6 1/3 101 25 5 1 2 4
斎藤 (3 仙台育英) 0 2/3 8 2 0 1 0 0
竹中 (4 大阪桐蔭) 1 14 3 1 0 0 0
田中 (2 仙台育英) 1 12 4 0 1 1 0
計
9 135 34 6 3 3 4
山陰中央新報配信より
島根県津和野町長選 下森博之氏、1736票差の大差で5選 新人との一騎打ち制す(山陰中央新報) - Yahoo!ニュース
配信より
任期満了に伴う島根県津和野町長選が19日投開票され、無所属現職の下森博之氏(60)=4期=が、
無所属新人でNPO法人代表理事の矢上亜津子氏(41)を破り、5選を果たした。
投票率は72・42%で、2021年の前回選を10・68ポイント下回った。
【詳報】人口減少や観光振興、課題山積 下森氏「恩返しできるようまちづくりを進める」
◆開票結果(19日午後9時25分、選管最終)
当2837 下森 博之 60 無現(5)
1101 矢上亜津子 41 無新
【関連記事】

日刊スポーツ配信より
【東京6大学】明大が5季ぶり優勝 就任1年目戸塚監督の下で投打充実 4連覇狙う早大から連勝(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース 配信より
<東京6大学野球:早大0-1明大>
◇
第6週第2日
◇
19日
◇
神宮 明大が5季ぶりの優勝を飾った。
4連覇を狙う早大から2連勝で、今季開幕から負けなしの8戦全勝で勝ち点4に伸ばした。
木本圭一主将(4年=桐蔭学園)が5回1死二塁から左越えの適時打で先制点を生み出すと、リードを譲らす逃げ切り。
次週の最終カード立大戦を待たずに優勝が決まった。
投手陣を中心とした粘りの野球が実を結んだ。春にベストナインと最優秀防御率を獲得した
毛利海大投手(4年=福岡大大濠)やリリーフエースの大川慈英投手(4年=常総学院)らの奮闘で、
チーム防御率は0点台と他大学を圧倒した。
今秋のドラフト上位候補の小島大河捕手(4年=東海大相模)を中心とした打線も機能し、
チーム打率は3割台と安定していた。
昨年大黒柱として活躍を見せた宗山塁(現・楽天)のような突出した選手はいないが、
エース番号の11を背負う高須大雅投手(4年=静岡)の不在を感じさせない層の厚みが際立った。
就任1年目から戸塚俊美監督(61)は、その高い献身ぶりで選手たちに信頼される存在になった。
ノッカー、打撃投手、審判を務めるほか、雨でぬかるんだグラウンドを率先して整備に励む。
82歳松岡功祐コーチとともに寮で寝泊まりして昼夜問わず選手たちを熱心に指導する姿から
、いつしか「戸塚さんを男にしたい」がチームの合言葉になった。
1回戦で春にノーヒット・ノーランを許した
早大のエース伊藤樹投手(4年=仙台育英)を攻略して7失点。
その流れに乗ったチームは一気に2連勝で片を付けた。
4日後にドラフト会議を控え、「戸塚明治」が一足早く歓喜に浸った。
【関連記事】

宇部日報配信より
現職と新人の一騎打ちか、19日に市長選告示【山口】(宇部日報) - Yahoo!ニュース 配信より
任期満了に伴う山口市長選が19日に告示される。
無所属で現職の伊藤和貴さん(67)と社会福祉法人理事長の佐々木信夫さん(87)が出馬を表明している。
立候補の届け出は午前8時半~午後5時に市役所で受け付ける。
市長選に向けては、伊藤さんは市議会9月定例会で「合併20周年を経て新たなまちづくりモードへ移行していく中で、ずっと元気な山口を実現したい」と出馬を表明。9月には総決起集会を開き、今月に入って後援会事務所を平川に開設するなど、選挙に向けた準備を着実に進めてきた。出陣式は、20日午前9時からJA山口県山口統括本部で行う。
一時は半世紀以上ぶりとなる無投票かと思われたが、佐々木さんが県庁所在地で無投票の首長の決定はあってはならないと立候補を決めた。「子育て施策の充実と人口減対策を行い、県都山口を飛躍的に向上させる」と意欲を見せる。届け出後、ポスター張りに自ら繰り出し、草の根選挙を展開する。
投開票は26日。開票作業はやまぐちリフレッシュパーク総合体育館で行われる。
市選挙管理委員会によると、9月1日現在の選挙人名簿登録者数は、15万5289人(男性7万3296人、女性8万1993人)。
【関連記事】
最終更新:
宇部日報令和7年10月18日、山口県知事選(来年1月22日告示、同2月8日投開票)に、現職の総務省財政課財政企画官などを務めた村岡嗣政氏(52)が 4選を目指して立候補する意向を固め、自民党県連側に伝えたことが関係者への取材でわかった。
令和7年10月17日、香淳皇后の生涯を記した 公式記録「香淳皇后実録」が 令和7年10月9日に宮内庁のホームページで公開された後、上皇后美智子陛下 と 群馬県 知事 等、並び、山口県における 当家 と 上皇后美智子陛下 との 学術分野における 一連の対応、並び、その調整もあり、 群馬県 前橋市にある 群馬県 知事戦略部 秘書課 秘書第一係 原田 主任と 私は、それにかかる 相互における その連絡済みの書面をもとにして、対談をした。
○ 情報公開・開示請求実務マニュアル









NNN配信より
【貴重映像で綴る】家族・音楽・絵を愛し、戦後の“皇后像”示した、香淳皇后の“知られざる姿”…「香淳皇后実録」公開(日テレNEWS NNN) - Yahoo!ニュース 配信より
日テレNEWS NNN
香淳皇后の生涯を記した公式記録「香淳皇后実録」が10月9日に宮内庁のホームページで公開されました。実録から、生涯が“学びの日々”であったこと、家族を大切にしていたことなどが浮かび上がりました。戦後、新しい“皇后像”を示したその素顔に迫ります。
――こちらの建物はなんでしょうか。 「桃華楽堂」という、皇居の東御苑にある音楽堂です。昭和天皇の后で、今の天皇陛下の祖母にあたる香淳皇后の還暦のお祝いにつくられました。 1966(昭和41)年に完成し、今も演奏会で使われています。「桃華楽堂」の「桃(とう=モモ)」は、香淳皇后の名前に代わる"お印"です。音楽や絵画を愛した香淳皇后を象徴する記念碑的な建物、それが「桃華楽堂」です。コンサートは公開されていませんが、建物の前には東御苑の公開日に行くことができます。
その香淳皇后の生涯を記した公式記録「香淳皇后実録」が天皇皇后両陛下のお手元に上げられ、10月9日に宮内庁のホームページで公開されました。 この実録から、戦前、昭和天皇の役割を補完していたこと、敗戦後の混乱期には「ご進講」を通じて新しい制度や仕組みを学び、戦災に遭った人々を励ますなど"主体的"に動いていたこと、少女時代から生涯"学びの日々"にあったこと、家族をとても大切にしていたことなどが新たに浮かび上がりました。 ――天皇陛下のおばあさまということで、私は世代的にあまり知らないので、どんな方だったのか興味があります。
――まず、「実録」とは何ですか? 香淳皇后の行動が日を追う「編年体」で書かれ、どのような生涯だったかがわかる国の「正史」です。本文12冊、約4000ページからなり、17年かけて出来上がりました。『昭和天皇実録』までは書籍化されましたが、初めてWEB上での公開となりました。
――香淳皇后は、どのような方だったのですか? 昭和天皇のお后で、お名前は「良子(ながこ)」、久邇宮家の長女として1903(明治36)年に誕生しました。1918(大正7)年、14歳の時に皇太子妃に「予定」され、20歳の1924(大正13)年1月、結婚の諸儀式が行われました。

昭和天皇との間に2男5女をもうけ、戦後の「象徴天皇制」のもとで新しい「皇后像」を示しました。上皇さまはその5番目のお子さまです。そして2000(平成12)年6月16日、歴代の皇后・皇太后では最高齢の97歳で亡くなりました。 ――私は1996年生まれなので、その時はまだお元気だったんですね。 ただ、1977(昭和52)年に腰を痛めて行事への出席が減り、昭和天皇が亡くなり、平成になってからはほぼ姿をみせることはありませんでした。私が読売の記者として皇室取材に関わった時は、もう車椅子の生活でした。
――公表された「実録」からは、どんなことがわかるのですか。 こちらは1975(昭和50)年のアメリカ訪問の後、初めてテレビで放送された昭和天皇と香淳皇后の記者会見の様子です。香淳皇后の肉声はとても珍しいものです。 記者)「ご訪米中、特に懐かしく思い出していらっしゃることがございましたら、お話しいただきたいと思います」 香淳皇后)「どれもこれも懐かしく思うもので。とにかくいろいろ変わったものを見せてもらって大変楽しく思いました」 今では、天皇陛下の記者会見は音声があるのは普通ですけれども、当時は非常に珍しく、これが初めてでした。昭和天皇と一緒の動きは『昭和天皇実録』からわかりますが、香淳皇后の一人の動きは一部しかわかっていませんでしたので、一人で誰と会い、どこへ出かけ、どんな話をしたかがわかる「実録」は貴重です。ただ会話の内容など書かれていないことも多々あって、実録から人柄が分かるとまではいきません。 昭和の世代は、香淳皇后と聞いて、昭和天皇の横で静かに微笑んでいる方というイメージでしょうが、実録から浮かび上がる姿は、戦災に遭った人たちに注ぐ優しい眼差し、変革期の社会のことを学ぼうとする姿勢、音楽や日本画への熱意、そして家族を大切にする母の姿です。 きょうは、膨大な記述の中から、戦後の混乱期の動き、学び、音楽と絵への熱意、そして家族愛に絞って見ていきたいと思います。
【玉音放送】 『堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ(堪え難きを堪え忍び難きを忍び)』 まずは終戦直後の動きです。昭和20年8月15日の終戦の玉音放送ですが、香淳皇后の動きについて実録はこう記しています。 【「香淳皇后実録」より】 『十五日 水曜日 午前十一時五十五分、御文庫においてラジオのスイッチをおつけになり、正午より、大東亜戦争終結の詔書渙発の玉音放送を終了まで静かにお聴きになる。還御された天皇をお出迎えになり、御機嫌をお伺いになる』 これまで香淳皇后がどこで玉音放送を聞いたのかはっきりしませんでしたが、今回、当時の住まいの「御文庫」で自らラジオのスイッチを入れ、聞いていたことが書かれています。その後、「御文庫附属室」というポツダム宣言受諾の「御聖断」が下った防空壕から戻った昭和天皇を迎えています。 その「終戦の詔書」を香淳皇后は大切にしました。10月17日には「折本」――紙を貼り継いで、一定の幅で蛇腹折りにした本にし、その後、清書や書き写しもしています。 さらに、上皇さまと3人の内親王方と一緒に朗読しています。敗戦を受け入れた天皇の考え、思いを、子どもたちにしっかり伝えようとしたのでしょう。 ――私は平成生まれとして、上皇さまが平和に対する思いを強くされているというのを子どもながらに感じていたんですが、香淳皇后から伝えられたことが、もしかしたら原点になっているのかもしれませんね。 上皇さまは疎開のご体験もおありですが、こういう詔書を読み返してみるのも大事だったのではないかと思います。
昭和天皇は1946(昭和21)年2月から、国民を励ますために「戦後巡幸」を神奈川県から始めますが、その3日後、香淳皇后も一人で都内の済生会病院や産院、乳児院などを訪れ、「和製の薬品で不足はないか」などと尋ね、復員兵や結核患者らを見舞っています。 また、慈善活動にも積極的に取り組みました。戦災引揚孤児救済に充てるために開かれた書道展に和歌3首を贈るなど、皇后としても主体的に動いていたことがわかります。 ――荒廃した戦後の中で積極的に活動していたんですね。 1946年(昭和21)年12月、日本赤十字社の総会でのお言葉から思いがよくわかります。 【日本赤十字社第54回通常総会でのお言葉(1946年12月10日)】 『全国にわたる戦災と終戦後の社会の急激な変化とによって、いまわが国民は非常な苦しみのうちにあり、ことに戦災者や引揚者の中には、たいそう困っている人が多いと思います。父母を失い、夫や子を失った人たちの悲しみと悩みは充分察することが出来ます。どうしたならば、そういう人たちの心の傷を少しでも軽くすることが出来るでしょうかと、日々心をいためております』 ――“なんとかしたい”という切実な思いが感じられますね。 「どうしたならば」とか、気持ちの表現がとてもストレートで響きます。そして、語りかけるお言葉がとても新鮮で、終戦直後のこととは思えないような感じがします。
この当時、香淳皇后は3日に1度のペースで「ご進講」――専門家の講話をいろいろと聞いています。 こちらは東京帝国大学法学部教授で、後に東宮大夫、最高裁判事となった穂積重遠のご進講のテーマです。テーマだけですが、敗戦の変革期にあって、新しい憲法や法律、社会の動きを知ろうとしていたことがうかがえます。労働問題や労働基準法などへの関心は驚きです。 ご進講は穂積だけではありませんが、穂積の進講は、結婚した大正13年からこの年まで、実に252回にも上っています。穂積は香淳皇后にとって"社会を知る窓"だったと思います。 ――戦後、急激に変わる日本がどのようになっていくのかということにすごく関心があったのだと思います。 時代は、"大元帥"から"象徴天皇"への変わり目で、制度自体がガラッと変わりました。そういう中で、皇后として学んでいたということなのだと思います。
こちらは大正13年、1924年の「結婚の儀」の貴重な映像です。結婚前から"学びの日々"は始まっていました。大正7年1月、14歳で皇太子妃に「予定」されると、女子学習院をやめ、久邇宮邸に設けられた「御学問所」で学んでいきました。
こちらが当初の時間割です。「歴史」「修身」「地理」「フランス語」「ピアノ」「琴」「和歌」などの講話や稽古が行われました。フランス語は当時の外交で主要な公用語でした。 ――「修身」というのはどういう科目ですか。 今の「道徳」にあたるかと思います。「孝行」や「勤勉」などを説く"お后の心得"と言ってもいいと思います。"修養"は結婚してからも「学課」として続き、それとは別に専門家の話を聞く「ご進講」も次々に入ってきました。
学びは戦後も続きます。戦後、皇太子、今の上皇さまの英語の教師としてアメリカからヴァイニング夫人が招かれたことは広く知られていますが、香淳皇后も週2回、1947(昭和22)年だけで39回のレッスンをヴァイニング夫人から受けています。 しばしばお茶や食事を共にし、様々な贈り物もしています。ヴァイニング夫人との交友は、上皇さまだけでなく、香淳皇后とのつながりも深かったんです。

1971(昭和46)年フランス フランス語講師だったルヌー夫人(中央)
こちらは1954(昭和29)年から1956年までフランス語の進講を担当していたルヌー夫人と1971(昭和46)年にパリで再会したときの様子です。英語もフランス語もこの頃まで継続してレッスンを受けていました。 また漢文も33年余も同じ先生から学んでいます。熱意がなければ続きませんよね。
音楽や絵画も熱心に学んでいました。71歳の誕生日に公表された映像には、レコードを家庭用のステレオにセットする様子が映されていましたが、香淳皇后は結婚前からピアノとバイオリンを習い、歌を独唱し、演奏を聴くなど、音楽と共にありました。 1956(昭和31)年の「母の日」、お子さまたちから29枚のレコードをプレゼントされていますから、本当に音楽がお好きだったのだと思います。 ピアノの先生との縁も長く、大正8年から昭和30年まで36年も神戸絢という1人のピアニストに習い、4人の内親王方も神戸先生の手ほどきを受けています。 ――36年間も1人の先生から学ばれていたというのは、すごいですね。 また、香淳皇后は生涯を通して超一流の音楽家の演奏を聴いています。
こちらは1959(昭和34)年、伝説のテノール、マリオ・デル・モナコらが出演したイタリア歌劇団の公演を聴きに行った時の様子です。 大正時代の結婚前には、オペラ歌手・三浦環の独唱や、オランダのチェロ奏者ジョゼフ・ホルマンの演奏などを聴き、戦後はピアノのコルトー、バックハウス、バイオリンのシゲティなど、世界の超一流音楽家が皇居に招かれて演奏しました。こうした音楽家の演奏もふさわしい音楽堂をと、「桃華楽堂」が構想されていったのだろうと思います。
1969(昭和44)年に世界最高峰のオーケストラ、ウィーンフィルが来日した時には、ベートーベンの交響曲第7番などを香淳皇后の隣で聴かれている、9歳になったばかりの天皇陛下の姿も残されています。 ――かわいらしい陛下のお姿ですけれども、陛下の音楽好きは、おばあさまから受け継がれたものなんですね。 9歳でウィーンフィルとは、インパクトがとても大きいでしょうし、すごい経験だったと思います。

1971(昭和46) 年 西ドイツ(当時)ボン/ベートーベン・ハウス
1971(昭和46)年、天皇皇后として初めて外国を訪問した時は、ドイツでベートーベンの生家を訪ね、ベートーベンが使ったピアノでドイツの名ピアニスト・エッシェンバッハの「月光」ソナタなどを聴いています。 実録には、ここでの演奏鑑賞は香淳皇后の希望で、「大好きな作曲家の演奏に接して嬉しく思います」と話したことも記されています。実録で会話が紹介されている数少ない箇所です。
一方、「絵」についても結婚前から教育を受けていました。香淳皇后の絵は「日本画」ですが、川合玉堂や、山口玉糸、山口蓬春、前田青邨ら、日本画の大家から指導を受け、自らの絵の講評を頼んで腕を磨いていきます。 1967(昭和42)年、64歳の誕生日には、前田青邨が絵を選び、香淳皇后の好みも加えて「桃苑画集」が刊行されました。画集の名前の「桃」はお印ですね。
1973(昭和48)年「古希をお祝いして 皇后さまの絵と書展」 左は前田青邨
古稀、70歳を迎えて絵画と書の個展も開いています。1973(昭和48)年、都内で開かれた「皇后さまの絵と書展」で日本画51点と書5点が初めて一般に公開されました。京都、愛知でも開かれ、入場者総数は7万7千人、収益金は日本赤十字社に寄付されました。 ――プロ級の腕前でいらっしゃったんですね。たゆまぬ向上心の賜物ですね。
香淳皇后は、家族愛の強い方でもありました。こちらは1946年、終戦翌年の昭和天皇ご一家です。香淳皇后の前の、丸刈りの少年が上皇さまです。常陸宮さまは上皇さまの後ろに隠れてしまっていますが、上皇さまの姉や妹たちの姿も見えます。 ――みなさん笑顔で、仲睦まじい家族写真ですね。 いい表情をされています。皇室は、昭和まで家族は一緒に住まないしきたりでした。戦後まもない頃、皇太子時代の上皇さまは東京・小金井の「東宮御仮寓所」、常陸宮さまは空襲で焼けた宮殿の近くにあった「義宮御殿」、内親王方は今の東御苑にあった「呉竹寮」で暮らしていました。 だからこそでしょうが、香淳皇后は「呉竹寮」にしばしば足を運び、内親王方のピアノや書道の稽古を見守り、ご自身もレッスンをされていました。 写真で香淳皇后の向かって右側が、長女の東久邇成子さんです。35歳の若さで亡くなりますが、上皇ご夫妻の御成婚に際し、成子さんが語った貴重な映像が残されています。

東久邇成子さん) 「きっと、あの慎重な東宮さま(上皇さま)がお考えになった上で選ばれた方でございます。きっときっと将来のご伴侶として立派な方だと信じております」 成子さんは35歳でガンの手術を受け、1961(昭和36)年4月4日、宮内庁病院に入院しました。7月23日に亡くなるまでの約3か月余り、香淳皇后は昭和天皇と28回、一人で34回見舞っています。実に62回、2日に一度のペースです。 亡くなった時は夜通し病室で見守り、自ら化粧直しもしています。さらに天皇は葬儀に参列しないという慣例を破って、昭和天皇も香淳皇后と一緒に参列しています。 この間、治療法がない中で香淳皇后は「施術師」の"電気療法"を頼り、医師たちの中止の求めに「おぼれるものはわらをもつかむと言うが、わからないのか」と声を震わせて怒ったと、侍医の本に記述がありますが、実録には盛り込まれていません。
成子さんとの悲しい別れがあったからでしょうか、1963(昭和38)年に、4女の池田厚子さんが岡山で入院した時は、昭和天皇と1泊2日で岡山入りして見舞い、翌年に再入院した時は香淳皇后一人でも出かけています。 ――一人の母親としての強い思い、優しさを感じますね。 昭和天皇と香淳皇后は、二女を生後半年で亡くしていますから、それだけに子どもたちの身を案じる気持ちが強かったのだろうなと思います。
「家族愛」で言えば、昭和天皇と香淳皇后は、お子さまたちの一家を頻繁に皇居に招き、向こうの住まいにも行き来して、食事を共にし、歓談し、お誕生日などの集まりも大事にして、“家族の絆”を深めています。会食の多さは実録の編修者も驚くほどです。 ――ご家族の和やかな表情もすてきですし、手をつながれている姿も仲睦まじくていいですよね。 例えば、お子さまたちが催した還暦の祝いの内宴では、実家の妹さんと「春の歌」などを二重唱し、アンコールに応えてメンデルスゾーンの「おおひばり」を独唱していますし、茶会で「アベ・マリア」を独唱したこともありました。
1973(昭和48)年の新年用の昭和天皇ご一家の映像では、香淳皇后愛用の白いピアノの横で天皇陛下がバイオリンを弾かれています。1963(昭和38)年には、夕食後、香淳皇后がバイオリン、皇太子時代の上皇さまがチェロで合奏されたこともありました。 "ご一家での音楽"といえば、上皇さまのチェロに、上皇后さまのピアノ、天皇陛下のビオラの合奏が思い浮かびますが、香淳皇后との合奏からスタートしたのかもしれません。 ――改めて今回、「香淳皇后実録」を読んでみていかがでしたか。 『昭和天皇実録』と付き合わせた香淳皇后についての研究は、これから進むでしょうが、きょう見てきた戦後の活動、皇太子妃に予定されてからの学びの日々、音楽・絵への情熱、家族愛は、“人物像”に迫る"カギ"になるのだろうと思います。 香淳皇后が作っていった戦後の"皇后像"が、実録から見えてきますし、昭和天皇の横で静かに微笑んでいた印象が、今回の実録公開によって少しずつ変わっていくのではないかと思いました。 ――私も今回初めて、香淳皇后がどのような人生を歩んだのかを知って、何事にも熱心に学び続ける姿勢に感銘を受けましたし、改めて昭和天皇ご一家にとって本当に大きな存在で深い愛に包まれた方だったのだろうと思いました。 【井上茂男(いのうえ・しげお)】 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
8/8ページ
【関連記事】
最終更新:
日テレNEWS NNN


























配信
明大7連勝、V王手 東京六大学野球(時事通信) - Yahoo!ニュース 配信より
東京六大学野球秋季リーグ戦第6週第1日は18日、神宮球場で1回戦2試合が行われ、
明大は早大に9―2で快勝し、無傷の7連勝とした。
明大は19日の2回戦も勝てば、5季ぶり44度目の優勝が決まる。
慶大は立大を延長十一回の末に7―4で破った。
明大は17安打。
四回に小島(4年、東海大相模)の2点適時打などで4点を先制し、六回には本塁打2本で突き放した。
慶大は十一回に5点を奪い、救援登板した外丸(4年、前橋育英)が通算20勝目を挙げた。
【関連記事】
最終更新:
時事通信

スポニチアネックス 配信より
あす18日、ドラフト上位候補が激突!早大・伊藤樹vs明大・毛利の投げ合い 優勝を懸けた早明戦(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース 配信より
東京六大学野球は18日から第6週の早大―明大、慶大―立大の2カードが組まれている。
開幕から6連勝、勝ち点3の明大は早大に連勝すれば優勝が決まる。
明大が一気に走るのかV4を狙う早大が止めるのか。
大一番となりそうだ。
【写真】<明大・法大>試合後に喜び合う決勝本塁打の今井と毛利
明大は投打ともに充実している。チーム防御率は0・83、チーム打率は・316とともにリーグトップ。
ドラフト上位候補の毛利が1・42、今季から先発で起用されている大室がイニング数は少ないが0・71と安定。
中継ぎの菱川、抑えの大川も無失点と結果を出している。
打線もドラフト1位候補の小島、5番を打つ宮田が打率4割台、レギュラー6人が3割を超え
6番光弘は6打点と勝負強さを見せている。
慶大戦では瀬、法大戦では今井が代打決勝本塁打を放つなど、控えも乗っているのが強みだ。
2季連続、早大との優勝決定戦に敗れており「今季こそは」の思いは強い。
法大に勝ち点を落とした早大は負けられない戦いとなる。
春に明大相手にノーヒット・ノーランを達成し“明治キラー”として君臨する
ドラフト上位候補・伊藤樹は優勝決定戦を含め対明大は6勝1敗、防御率2・01。
今季は本来の投球とはなっていないが、明大相手となれば気合いの入り具合が違う。
投手陣を援護する打線もチーム打率・310と明大と遜色ない。
打率首位の石郷岡を筆頭に田村、前田健が4割台をマーク。
4番の寺尾は・219と打率は低いが7打点と好機には強い。
あと2安打で通算100安打の尾瀬、8番ながら勝負強い吉田瑞と打線の流れはいい。
左打者が並ぶ明大に宮城&香西の左腕がどれだけ踏ん張るかも勝敗の分かれ目になる。
早大は明大から勝ち点を挙げれば4連覇が見えてくる。
このカードが終われば一週空く日程だけに総力戦で臨むのは間違いない。
6連勝中、代打決勝アーチが2本、1年生山口が初登板初勝利、復活した久野が2年ぶりの勝利、
相手失策から試合をひっくり返すなど“神ってる”明大か、4連覇へチーム一丸の早大か。
スタンドの熱気も勝敗を左右するだけに明大、早大ともに学生、ファンがどれだけ神宮に駆けつけるか。
こちらももう一つの早明戦である。
◇明大優勝の条件 (1)早大に連勝(2)早大に2勝1敗、立大が慶大に1敗
【関連記事】
最終更新:
スポニチアネックス

スポニチアネックス配信より
【東京六大学】早大は頼みのエース伊藤樹が7失点で完敗 小宮山監督「3回戦でまた頑張ってもらわないと」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース 配信より
◇東京六大学野球秋季リーグ戦第6週第1日
1回戦 早大 2―9 明大(2025年10月18日 神宮)
【写真あり】通算2730安打のレジェンド青木氏が早大ユニホーム姿で始球式
早大は投手陣が17安打を浴びて明大に完敗した。
「全体的に明治の圧を感じた。
春、悔しい思いをしてきたから凄い気迫で来るのを、
こちらとしては跳ね返さないといけなかった」
と小宮山悟監督。
ドラフト候補のエース伊藤樹(4年=仙台育英)が7失点と崩れた。
4失点したところで続投し、6回に2本塁打を浴びたが
「タツキ(伊藤)以上の投手がいないからね」と話した。
2回戦で負ければV4が消滅。
「あす勝たないとね。3回戦で伊藤にまた頑張ってもらわないと」と指揮官は巻き返しを誓っていた。
【関連記事】
最終更新:
スポニチアネックス
山口新聞 電子版配信より
どうする人口減少対策 山口市長選19日告示 阿東地域10年で3割減、農業担い手確保も急務 「将来像語り合い総力結集を」「農地を守り次世代に」願い切実(山口新聞 電子版) - Yahoo!ニュース 配信より
廃校になった小学校の校舎を活用した私設図書館「阿東文庫」で本を管理する吉見正孝さん。高齢化に伴い地域の人口減少が進む中、若者が集まって5年後の阿東を考える場にしようと模索する=10日、山口市阿東徳佐上
児童たちがいなくなった教室や廊下に所狭しと「蔵書」が並ぶ山口県山口市阿東徳佐上の阿東文庫。
20年ほど前に廃校になった亀山小学校の校舎を活用し、
地元の人たちが2007年に開設した私設の図書館だ。
開設当初は地域住民が持ち寄った本が中心だったが、近年は大学教授など全国から
貴重な書籍や資料が寄せられるようになり、知の拠点として都市部の人たちからも親しまれる。
島根県との県境に接し、山の麓に広大な田んぼが広がる山口市の阿東徳佐地域。
高齢化が進み、阿東文庫を立ち上げた吉見正孝さん自身も85歳と高齢になった。
吉見さんは「90歳まで頑張ろう」と意気込み、阿東文庫を若者が集まって
5年後の阿東を考える場にしようと模索する。
「ここにある本をどのように活用するか、毎日考えている」と吉見さん。
地元の将来像についてコーヒーを飲みながら語り合う会を来月から開こうと計画する。
毎回テーマを設ける予定で、少子化を踏まえて地元の小中学校の在り方も議論の対象にする方針だ。
「地域の総力を結集するシステムを作らなければ地域がなくなってしまう。
阿東文庫でできることを考えたい」と人口減少に危機感を募らせる。
阿東文庫の周辺では、農業の担い手となる若者の受け入れ態勢を整える農業法人が増えつつある。
山口市阿東徳佐中の農事組合法人片山は、県立農業大学校や山口大農学部で学んだ女性2人を新たに採用。
シャワーやトイレが付いた休憩室を整備するなど、新卒の若い女性でも安心して就農できる環境を整えた。
片山は農地55ヘクタールで水稲や麦、大豆、野菜を生産。
高齢化に伴う離農で管理する農地が増える一方で働き手が不足している。
新卒女性2人のおかげで現場作業と事務作業とも効率が良くなったが、
新たな担い手を募集してもなかなか採用できないのが現状だという。
代表理事の山根勝正さん(68)は「若い人が来てくれれば活性化につながる」と期待する一方、
担い手確保の難しさに直面。「このままでは作る人がいなくなり、田んぼは荒れる一方だ」と将来を案じる。
山口大農学部を卒業し、片山で就農した佐々木結香さん(25)は近く独立し、
阿東嘉年地域で祖母が守ってきた山や農地を活用してトマト栽培を始める。
学生時代に実習で農業に魅力を感じるようになった佐々木さん。
「農業は難しいから飽きなくて、やりがいがある。農業で農地を守り、
次の世代にバトンタッチできるように頑張りたい。若い人たちの目標になれれば」
と意気込む。
◇
平成の大合併で新市が発足して1日に20周年を迎えた山口市。
同日現在の推計人口は18万7965人で、10年前の同期と比べ約4・8%減った。
阿東地域は4036人で、同約30・0%減と大幅に減少。
中心部と比べ市が農山村エリアと位置付ける周辺部で人口減少は著しく、
即効性のある効果的な対策が急務だ。
任期満了に伴い19日に告示、26日に投開票される山口市長選で、
今後4年間のかじ取り役を担う候補者がどのような施策を訴えるのか。
県庁所在地の将来を考える上でも注目が集まる。
【関連記事】
最終更新:
山口新聞 電子版令和7年10月13日、 山口大学 人文学部・人文科学研究科 小林宏至准教授 と 私は、対談する。
保育政治連盟、維新150年!! 輝け花と共に・・、
柳井市 山口県議 補欠選挙、山口市、柳井市、岩国市、山口県 交通政策課、山口市長選挙、山口市、山口市 教育委員会、島根県 吉賀町、島根県 益田市、益田市 危機管理課、デジタルカメラ、岩国市、FCLP、中国四国防衛局 深和岳人局長、山口県 総務部 田中康史理事、岩国基地における飛行訓練、岩国市長、・・・
〇 農業ビジネス
山口亮子/クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
〇 図解でよくわかる 農業のきほん: 栽培の基礎から新技術、流通、就農まで (すぐわかるすごくわかる!) 誠文堂新光社
〇 金持ち農家、貧乏農家
高津佐和宏/かんき出版
〇 計量経済学のすすめ (1970年) (エコノミスト・シリーズ)
西川 俊作/毎日新聞社
〇 数量経済史の原点―近代移行期の長州経済 (慶應義塾大学産業研究所選書)
西川 俊作/慶應義塾大学出版会
〇 労働市場 (1980年) (日経文庫 経済学入門シリーズ)
西川 俊作/日本経済新聞社
〇 佐藤寛子の「宰相夫人秘録」 (1974年)
〇 宰相夫人の昭和史
上坂 冬子/文藝春秋
〇 花燃ゆ 完結編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
NHK出版/NHK出版
#阿部俊子文部科学大臣
#給付付き税額控除
#山口県教育情報化推進室
#萩市・前橋市
#萩市長
#山口市長
#山口市議会議長
#山口市議会事務局庶務係
#山口市議会議員
#山口県議会議員







