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香淳皇后の生涯を記した公式記録「香淳皇后実録」が10月9日に宮内庁のホームページで公開されました。実録から、生涯が“学びの日々”であったこと、家族を大切にしていたことなどが浮かび上がりました。戦後、新しい“皇后像”を示したその素顔に迫ります。
■天皇陛下の祖母、香淳皇后の生涯を記した「香淳皇后実録」公開

2024(令和6)年 皇居・桃華楽堂
――こちらの建物はなんでしょうか。 「桃華楽堂」という、皇居の東御苑にある音楽堂です。昭和天皇の后で、今の天皇陛下の祖母にあたる香淳皇后の還暦のお祝いにつくられました。 1966(昭和41)年に完成し、今も演奏会で使われています。「桃華楽堂」の「桃(とう=モモ)」は、香淳皇后の名前に代わる"お印"です。音楽や絵画を愛した香淳皇后を象徴する記念碑的な建物、それが「桃華楽堂」です。コンサートは公開されていませんが、建物の前には東御苑の公開日に行くことができます。

1973(昭和48)年
その香淳皇后の生涯を記した公式記録「香淳皇后実録」が天皇皇后両陛下のお手元に上げられ、10月9日に宮内庁のホームページで公開されました。 この実録から、戦前、昭和天皇の役割を補完していたこと、敗戦後の混乱期には「ご進講」を通じて新しい制度や仕組みを学び、戦災に遭った人々を励ますなど"主体的"に動いていたこと、少女時代から生涯"学びの日々"にあったこと、家族をとても大切にしていたことなどが新たに浮かび上がりました。 ――天皇陛下のおばあさまということで、私は世代的にあまり知らないので、どんな方だったのか興味があります。

香淳皇后実録
――まず、「実録」とは何ですか? 香淳皇后の行動が日を追う「編年体」で書かれ、どのような生涯だったかがわかる国の「正史」です。本文12冊、約4000ページからなり、17年かけて出来上がりました。『昭和天皇実録』までは書籍化されましたが、初めてWEB上での公開となりました。
■14歳で皇太子妃に「予定」、20歳で結婚…香淳皇后97歳の生涯

香淳皇后の生涯
――香淳皇后は、どのような方だったのですか? 昭和天皇のお后で、お名前は「良子(ながこ)」、久邇宮家の長女として1903(明治36)年に誕生しました。1918(大正7)年、14歳の時に皇太子妃に「予定」され、20歳の1924(大正13)年1月、結婚の諸儀式が行われました。

1924(大正13)年 20歳で結婚 写真:アフロ
昭和天皇との間に2男5女をもうけ、戦後の「象徴天皇制」のもとで新しい「皇后像」を示しました。上皇さまはその5番目のお子さまです。そして2000(平成12)年6月16日、歴代の皇后・皇太后では最高齢の97歳で亡くなりました。 ――私は1996年生まれなので、その時はまだお元気だったんですね。 ただ、1977(昭和52)年に腰を痛めて行事への出席が減り、昭和天皇が亡くなり、平成になってからはほぼ姿をみせることはありませんでした。私が読売の記者として皇室取材に関わった時は、もう車椅子の生活でした。

1975(昭和50)年10月 テレビ初会見
――公表された「実録」からは、どんなことがわかるのですか。 こちらは1975(昭和50)年のアメリカ訪問の後、初めてテレビで放送された昭和天皇と香淳皇后の記者会見の様子です。香淳皇后の肉声はとても珍しいものです。 記者)「ご訪米中、特に懐かしく思い出していらっしゃることがございましたら、お話しいただきたいと思います」 香淳皇后)「どれもこれも懐かしく思うもので。とにかくいろいろ変わったものを見せてもらって大変楽しく思いました」 今では、天皇陛下の記者会見は音声があるのは普通ですけれども、当時は非常に珍しく、これが初めてでした。昭和天皇と一緒の動きは『昭和天皇実録』からわかりますが、香淳皇后の一人の動きは一部しかわかっていませんでしたので、一人で誰と会い、どこへ出かけ、どんな話をしたかがわかる「実録」は貴重です。ただ会話の内容など書かれていないことも多々あって、実録から人柄が分かるとまではいきません。 昭和の世代は、香淳皇后と聞いて、昭和天皇の横で静かに微笑んでいる方というイメージでしょうが、実録から浮かび上がる姿は、戦災に遭った人たちに注ぐ優しい眼差し、変革期の社会のことを学ぼうとする姿勢、音楽や日本画への熱意、そして家族を大切にする母の姿です。 きょうは、膨大な記述の中から、戦後の混乱期の動き、学び、音楽と絵への熱意、そして家族愛に絞って見ていきたいと思います。
■自らラジオをつけ玉音放送を聴く…昭和天皇の敗戦への思いを子どもたちへ

終戦の詔書(複製) 国立公文書館蔵
【玉音放送】 『堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ(堪え難きを堪え忍び難きを忍び)』 まずは終戦直後の動きです。昭和20年8月15日の終戦の玉音放送ですが、香淳皇后の動きについて実録はこう記しています。 【「香淳皇后実録」より】 『十五日 水曜日 午前十一時五十五分、御文庫においてラジオのスイッチをおつけになり、正午より、大東亜戦争終結の詔書渙発の玉音放送を終了まで静かにお聴きになる。還御された天皇をお出迎えになり、御機嫌をお伺いになる』 これまで香淳皇后がどこで玉音放送を聞いたのかはっきりしませんでしたが、今回、当時の住まいの「御文庫」で自らラジオのスイッチを入れ、聞いていたことが書かれています。その後、「御文庫附属室」というポツダム宣言受諾の「御聖断」が下った防空壕から戻った昭和天皇を迎えています。 その「終戦の詔書」を香淳皇后は大切にしました。10月17日には「折本」――紙を貼り継いで、一定の幅で蛇腹折りにした本にし、その後、清書や書き写しもしています。 さらに、上皇さまと3人の内親王方と一緒に朗読しています。敗戦を受け入れた天皇の考え、思いを、子どもたちにしっかり伝えようとしたのでしょう。 ――私は平成生まれとして、上皇さまが平和に対する思いを強くされているというのを子どもながらに感じていたんですが、香淳皇后から伝えられたことが、もしかしたら原点になっているのかもしれませんね。 上皇さまは疎開のご体験もおありですが、こういう詔書を読み返してみるのも大事だったのではないかと思います。
■戦災者に「日々心をいためて」…慈善活動にも主体的に取り組む

日本赤十字社で米赤十字関係者と 写真:アフロ
昭和天皇は1946(昭和21)年2月から、国民を励ますために「戦後巡幸」を神奈川県から始めますが、その3日後、香淳皇后も一人で都内の済生会病院や産院、乳児院などを訪れ、「和製の薬品で不足はないか」などと尋ね、復員兵や結核患者らを見舞っています。 また、慈善活動にも積極的に取り組みました。戦災引揚孤児救済に充てるために開かれた書道展に和歌3首を贈るなど、皇后としても主体的に動いていたことがわかります。 ――荒廃した戦後の中で積極的に活動していたんですね。 1946年(昭和21)年12月、日本赤十字社の総会でのお言葉から思いがよくわかります。 【日本赤十字社第54回通常総会でのお言葉(1946年12月10日)】 『全国にわたる戦災と終戦後の社会の急激な変化とによって、いまわが国民は非常な苦しみのうちにあり、ことに戦災者や引揚者の中には、たいそう困っている人が多いと思います。父母を失い、夫や子を失った人たちの悲しみと悩みは充分察することが出来ます。どうしたならば、そういう人たちの心の傷を少しでも軽くすることが出来るでしょうかと、日々心をいためております』 ――“なんとかしたい”という切実な思いが感じられますね。 「どうしたならば」とか、気持ちの表現がとてもストレートで響きます。そして、語りかけるお言葉がとても新鮮で、終戦直後のこととは思えないような感じがします。
■3日に1度の「ご進講」…新憲法や労働問題など、敗戦後の社会の変化を学ぶ

香淳皇后が穂積重遠から受けたご進講のテーマ(抜粋)
この当時、香淳皇后は3日に1度のペースで「ご進講」――専門家の講話をいろいろと聞いています。 こちらは東京帝国大学法学部教授で、後に東宮大夫、最高裁判事となった穂積重遠のご進講のテーマです。テーマだけですが、敗戦の変革期にあって、新しい憲法や法律、社会の動きを知ろうとしていたことがうかがえます。労働問題や労働基準法などへの関心は驚きです。 ご進講は穂積だけではありませんが、穂積の進講は、結婚した大正13年からこの年まで、実に252回にも上っています。穂積は香淳皇后にとって"社会を知る窓"だったと思います。 ――戦後、急激に変わる日本がどのようになっていくのかということにすごく関心があったのだと思います。 時代は、"大元帥"から"象徴天皇"への変わり目で、制度自体がガラッと変わりました。そういう中で、皇后として学んでいたということなのだと思います。
■歴史、仏語、ピアノなど…結婚前から始まった“学びの日々”

1924(大正13)年 結婚の儀
こちらは大正13年、1924年の「結婚の儀」の貴重な映像です。結婚前から"学びの日々"は始まっていました。大正7年1月、14歳で皇太子妃に「予定」されると、女子学習院をやめ、久邇宮邸に設けられた「御学問所」で学んでいきました。

当初の時間割
こちらが当初の時間割です。「歴史」「修身」「地理」「フランス語」「ピアノ」「琴」「和歌」などの講話や稽古が行われました。フランス語は当時の外交で主要な公用語でした。 ――「修身」というのはどういう科目ですか。 今の「道徳」にあたるかと思います。「孝行」や「勤勉」などを説く"お后の心得"と言ってもいいと思います。"修養"は結婚してからも「学課」として続き、それとは別に専門家の話を聞く「ご進講」も次々に入ってきました。

1957(昭和32)年 ヴァイニング夫人(左)
学びは戦後も続きます。戦後、皇太子、今の上皇さまの英語の教師としてアメリカからヴァイニング夫人が招かれたことは広く知られていますが、香淳皇后も週2回、1947(昭和22)年だけで39回のレッスンをヴァイニング夫人から受けています。 しばしばお茶や食事を共にし、様々な贈り物もしています。ヴァイニング夫人との交友は、上皇さまだけでなく、香淳皇后とのつながりも深かったんです。

1971(昭和46)年フランス フランス語講師だったルヌー夫人(中央)
こちらは1954(昭和29)年から1956年までフランス語の進講を担当していたルヌー夫人と1971(昭和46)年にパリで再会したときの様子です。英語もフランス語もこの頃まで継続してレッスンを受けていました。 また漢文も33年余も同じ先生から学んでいます。熱意がなければ続きませんよね。
■音楽を愛した香淳皇后…幼少の天皇陛下も連れ演奏会へ

1974(昭和49)年
音楽や絵画も熱心に学んでいました。71歳の誕生日に公表された映像には、レコードを家庭用のステレオにセットする様子が映されていましたが、香淳皇后は結婚前からピアノとバイオリンを習い、歌を独唱し、演奏を聴くなど、音楽と共にありました。 1956(昭和31)年の「母の日」、お子さまたちから29枚のレコードをプレゼントされていますから、本当に音楽がお好きだったのだと思います。 ピアノの先生との縁も長く、大正8年から昭和30年まで36年も神戸絢という1人のピアニストに習い、4人の内親王方も神戸先生の手ほどきを受けています。 ――36年間も1人の先生から学ばれていたというのは、すごいですね。 また、香淳皇后は生涯を通して超一流の音楽家の演奏を聴いています。

1959(昭和34)年 イタリア歌劇団公演
こちらは1959(昭和34)年、伝説のテノール、マリオ・デル・モナコらが出演したイタリア歌劇団の公演を聴きに行った時の様子です。 大正時代の結婚前には、オペラ歌手・三浦環の独唱や、オランダのチェロ奏者ジョゼフ・ホルマンの演奏などを聴き、戦後はピアノのコルトー、バックハウス、バイオリンのシゲティなど、世界の超一流音楽家が皇居に招かれて演奏しました。こうした音楽家の演奏もふさわしい音楽堂をと、「桃華楽堂」が構想されていったのだろうと思います。

1969(昭和44)年 ウィーンフィル演奏会
1969(昭和44)年に世界最高峰のオーケストラ、ウィーンフィルが来日した時には、ベートーベンの交響曲第7番などを香淳皇后の隣で聴かれている、9歳になったばかりの天皇陛下の姿も残されています。 ――かわいらしい陛下のお姿ですけれども、陛下の音楽好きは、おばあさまから受け継がれたものなんですね。 9歳でウィーンフィルとは、インパクトがとても大きいでしょうし、すごい経験だったと思います。

1971(昭和46) 年 西ドイツ(当時)ボン/ベートーベン・ハウス
1971(昭和46)年、天皇皇后として初めて外国を訪問した時は、ドイツでベートーベンの生家を訪ね、ベートーベンが使ったピアノでドイツの名ピアニスト・エッシェンバッハの「月光」ソナタなどを聴いています。 実録には、ここでの演奏鑑賞は香淳皇后の希望で、「大好きな作曲家の演奏に接して嬉しく思います」と話したことも記されています。実録で会話が紹介されている数少ない箇所です。
■日本画の大家から指導を受け、画集の刊行や個展も

1973(昭和48)年
一方、「絵」についても結婚前から教育を受けていました。香淳皇后の絵は「日本画」ですが、川合玉堂や、山口玉糸、山口蓬春、前田青邨ら、日本画の大家から指導を受け、自らの絵の講評を頼んで腕を磨いていきます。 1967(昭和42)年、64歳の誕生日には、前田青邨が絵を選び、香淳皇后の好みも加えて「桃苑画集」が刊行されました。画集の名前の「桃」はお印ですね。

1973(昭和48)年「古希をお祝いして 皇后さまの絵と書展」 左は前田青邨
古稀、70歳を迎えて絵画と書の個展も開いています。1973(昭和48)年、都内で開かれた「皇后さまの絵と書展」で日本画51点と書5点が初めて一般に公開されました。京都、愛知でも開かれ、入場者総数は7万7千人、収益金は日本赤十字社に寄付されました。 ――プロ級の腕前でいらっしゃったんですね。たゆまぬ向上心の賜物ですね。
■家族愛にあふれた香淳皇后…長女、東久邇成子さんの最期を夜通し見守る

1946(昭和21)年 写真・アフロ
香淳皇后は、家族愛の強い方でもありました。こちらは1946年、終戦翌年の昭和天皇ご一家です。香淳皇后の前の、丸刈りの少年が上皇さまです。常陸宮さまは上皇さまの後ろに隠れてしまっていますが、上皇さまの姉や妹たちの姿も見えます。 ――みなさん笑顔で、仲睦まじい家族写真ですね。 いい表情をされています。皇室は、昭和まで家族は一緒に住まないしきたりでした。戦後まもない頃、皇太子時代の上皇さまは東京・小金井の「東宮御仮寓所」、常陸宮さまは空襲で焼けた宮殿の近くにあった「義宮御殿」、内親王方は今の東御苑にあった「呉竹寮」で暮らしていました。 だからこそでしょうが、香淳皇后は「呉竹寮」にしばしば足を運び、内親王方のピアノや書道の稽古を見守り、ご自身もレッスンをされていました。 写真で香淳皇后の向かって右側が、長女の東久邇成子さんです。35歳の若さで亡くなりますが、上皇ご夫妻の御成婚に際し、成子さんが語った貴重な映像が残されています。

1958(昭和33)年 東久邇成子さん
東久邇成子さん) 「きっと、あの慎重な東宮さま(上皇さま)がお考えになった上で選ばれた方でございます。きっときっと将来のご伴侶として立派な方だと信じております」 成子さんは35歳でガンの手術を受け、1961(昭和36)年4月4日、宮内庁病院に入院しました。7月23日に亡くなるまでの約3か月余り、香淳皇后は昭和天皇と28回、一人で34回見舞っています。実に62回、2日に一度のペースです。 亡くなった時は夜通し病室で見守り、自ら化粧直しもしています。さらに天皇は葬儀に参列しないという慣例を破って、昭和天皇も香淳皇后と一緒に参列しています。 この間、治療法がない中で香淳皇后は「施術師」の"電気療法"を頼り、医師たちの中止の求めに「おぼれるものはわらをもつかむと言うが、わからないのか」と声を震わせて怒ったと、侍医の本に記述がありますが、実録には盛り込まれていません。

1963(昭和38)年9月 岡山県
成子さんとの悲しい別れがあったからでしょうか、1963(昭和38)年に、4女の池田厚子さんが岡山で入院した時は、昭和天皇と1泊2日で岡山入りして見舞い、翌年に再入院した時は香淳皇后一人でも出かけています。 ――一人の母親としての強い思い、優しさを感じますね。 昭和天皇と香淳皇后は、二女を生後半年で亡くしていますから、それだけに子どもたちの身を案じる気持ちが強かったのだろうなと思います。
■記念日には家族が集まり絆を強める…示した“新たな皇后像”

1971(昭和46)年
「家族愛」で言えば、昭和天皇と香淳皇后は、お子さまたちの一家を頻繁に皇居に招き、向こうの住まいにも行き来して、食事を共にし、歓談し、お誕生日などの集まりも大事にして、“家族の絆”を深めています。会食の多さは実録の編修者も驚くほどです。 ――ご家族の和やかな表情もすてきですし、手をつながれている姿も仲睦まじくていいですよね。 例えば、お子さまたちが催した還暦の祝いの内宴では、実家の妹さんと「春の歌」などを二重唱し、アンコールに応えてメンデルスゾーンの「おおひばり」を独唱していますし、茶会で「アベ・マリア」を独唱したこともありました。

1973(昭和48)年
1973(昭和48)年の新年用の昭和天皇ご一家の映像では、香淳皇后愛用の白いピアノの横で天皇陛下がバイオリンを弾かれています。1963(昭和38)年には、夕食後、香淳皇后がバイオリン、皇太子時代の上皇さまがチェロで合奏されたこともありました。 "ご一家での音楽"といえば、上皇さまのチェロに、上皇后さまのピアノ、天皇陛下のビオラの合奏が思い浮かびますが、香淳皇后との合奏からスタートしたのかもしれません。 ――改めて今回、「香淳皇后実録」を読んでみていかがでしたか。 『昭和天皇実録』と付き合わせた香淳皇后についての研究は、これから進むでしょうが、きょう見てきた戦後の活動、皇太子妃に予定されてからの学びの日々、音楽・絵への情熱、家族愛は、“人物像”に迫る"カギ"になるのだろうと思います。 香淳皇后が作っていった戦後の"皇后像"が、実録から見えてきますし、昭和天皇の横で静かに微笑んでいた印象が、今回の実録公開によって少しずつ変わっていくのではないかと思いました。 ――私も今回初めて、香淳皇后がどのような人生を歩んだのかを知って、何事にも熱心に学び続ける姿勢に感銘を受けましたし、改めて昭和天皇ご一家にとって本当に大きな存在で深い愛に包まれた方だったのだろうと思いました。 【井上茂男(いのうえ・しげお)】 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
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