「俺のどこに惚れたんだ?」
「どうしたの?そんなことを聞くなんて」
「いや、今まで一度も聞いたことが無かったから聞いてみただけだ」
「好きになるのに、理由が無いといけないの?」
この時、交わした会話が最後になるとは、誰が想像出来ただろうか。
彼女は夜の世界で紫牡丹と呼ばれたトップクラスのキャバ嬢だった。彼を一目見てから、感情を抑えて働くことが出来なくなり、一緒に暮らすことにしたのだ。
仕事も夜の世界から身を引き、小さな喫茶店でウェイターをしている。
彼との幸せな日々が続き、今朝も彼の為にハーブティーを注いでいた。細い指先でつかんだハーブティーを彼に渡す。
彼は受け取ると、彼女の瞳をまっすぐ見つめたまま、彼女の愛情も呑み込むように、ひと息で飲み干した。
「行ってくる」
背中を向けた彼に一言。
「行ってらっしゃい…」
そして、いつも通りのそれぞれの一日が始まる。日が暮れると、喫茶店の仕事を終えた彼女は彼の大きなシャツにアイロンをかけながら、彼が戻ってくるのを待っていた。
一方、彼は仕事を終えるといつもの電車に乗っていた。
彼は電車の中で誰かの視線を感じた。
電車内を見回すと、若い女性がこちらを見ている。熱い視線を彼に向けている。
彼は特に気にもせず、電車に映る自分の顔に家で待つ彼女の顔を重ねていた。
電車が止まり、彼は降りて、改札口がある下に降りる。その女性も降りて、彼の後をつけるが彼は全く気づかない。
改札口を抜け、彼女の元へいそぐ足先。
その時、後方から細い悲鳴が聞こえてきた。
振り向くと、あの女性が男達に襲われている。彼の中で眠っていた正義感が目を覚ました。
大きな拳が男達を襲う。
だが、そのひとりが地面の上で赤い血を流したまま動かなくなった。
地面に座ったまま、身体を震わせているその女性は、震える指先で闇の向こうを指した。
「早く、逃げて…」
彼は、その女性をそのまま放っておくことも出来ず、手を引き、闇の向こうへと消えていく。
何も知らない紫牡丹は、彼の帰りを待っていた。もう、戻ってこないことも知らずに…
「始まりのピエロ」より