第9話「疑念の罠」
雨は上がり、夜のニューヨークは濡れたアスファルトにネオンを反射させていた。
金融街の奥、FBIの臨時対策本部では、モニターに映し出された証券市場の取引グラフが乱高下を繰り返し、部屋中の空気をさらに張り詰めたものにしていた。
アレックスは、コーヒーの紙カップを机に置くと、資料の山を前に椅子へ腰を下ろした。
「動きが速すぎる。通常の投機じゃない。これは仕組まれた攻撃だ」
モニターに視線を釘付けにしたまま、彼は低く呟く。
その言葉に応じたのは、隣でデータ解析を担当するマヤだった。
「ええ、しかもアルゴリズムが複数の市場を横断して同時に走ってる。単独のハッカーの仕業じゃ説明がつかない。大きな資金、組織、それに……政治的な後ろ盾がある」
部屋の奥、上司であるFBI副長官のモリスは重々しい声を響かせる。
「金融インフラへの攻撃は、もはやサイバー犯罪じゃなく国家レベルの脅威だ。我々は公式に“テロ攻撃の可能性あり”と認定する」
その瞬間、場の空気が凍りついた。
誰もが、口には出さずとも「ロシアか?」という言葉を頭に浮かべていた。
マヤが彼を廊下に呼び出した。廊下は暗く、蛍光灯が一つだけ点滅している。
「何か見つけたのか?」
彼が問いかけると、マヤは小さなタブレットを取り出し、指先で画面を操作した。
「これを見て。昨日の取引ログの一部を追跡したんだけど、資金の流れが不可解なの」
タブレットに表示された矢印が複雑に交差していく。その先には、モスクワ、キプロス、ケイマン諸島といった“臭う”地名が並んでいた。
「……表向きはファンドだけど、裏は完全にペーパーカンパニーね。しかも途中で、一度だけニューヨークの小さな地方銀行を経由してる。そこに残ってた署名データが――」
マヤは言葉を切った。
アレックスが覗き込むと、署名データの欄には信じられない名前が表示されていた。
「……モリス副長官?」
アレックスの声は驚愕に震えていた。
「ええ。もちろん、彼本人が直接関与したとは限らない。偽装の可能性だってある。でも、これをそのまま捨て置くわけにはいかない」
廊下をすり抜ける冷気が、二人の間に緊張を持ち込んだ。
モリスはFBIで数十年のキャリアを誇り、数々の国家的事件を仕切ってきた大物だ。その名が、攻撃の資金ルートに刻まれている――これは、偶然か、それとも意図的か。
「罠かもしれない」
アレックスは拳を握りしめた。
「俺たちに疑念を植え付け、内部を崩壊させる狙いだとしたら……」
マヤはうなずきながらも、眼差しを鋭くした。
「でも、無視はできない。真実を掴まないと、次はもっと大きな攻撃が来る」
アレックスはビルの屋上に立っていた。遠くに広がる摩天楼の明かりが彼の瞳に映り込み、冷たい風が頬を切る。
携帯が震えた。
画面に現れたのは非通知の番号。
彼は一瞬ためらったが、通話ボタンを押した。
「アレックス・ロウか」
低く濁った声。英語ではない。ロシア語だ。
「お前たちが何を探しているか、我々は知っている」
言葉が途切れるたび、背後の雑音が妙に現実感を増した。
「モリスを疑え。だが、信じすぎるな。真実は二重の鏡だ」
プツリと通話は切れた。
屋上に残ったアレックスは、冷気を肺いっぱいに吸い込み、そして吐き出した。
「……始まったな」
彼の背中には、誰もいないはずの闇が静かに忍び寄っていた。