第13話 罠の陰
ホテルの一室。重いカーテンが外の光を遮り、室内は薄暗く沈んでいた。
マヤはベッドの縁に腰を下ろし、右脇腹を押さえて小さく息を吐く。防弾ベストのおかげで致命傷は避けられたが、至近距離から撃たれた衝撃は骨にまで響き、動くたびに痛みが走る。
彼女の額にはうっすらと汗が滲み、髪が頬に貼りついていた。
鏡に映る自分の顔を見て、マヤは思わず目を逸らす。
――この痛みが、自分への疑念を一層濃くするのではないか。
そんな不安が胸をよぎった。
テーブルの上には、アレックスが置いていったFBIの内部報告書のコピーが広がっていた。数枚の紙の端に赤ペンで引かれた線が、マヤの過去を照らし出す。
「マヤ・ヴォルコフ――2016年、モスクワ勤務時代。非公式な接触。証拠不十分で不起訴」
彼女は唇を噛む。あのとき、ただ情報源を救おうとしただけだった。だが、ロシアの二重スパイとの接触記録が残り、今となっては“黒幕と繋がっているのでは”という疑念を生み出す火種となっていた。
ドアがノックされた。
「入れ」
低い声で答えると、アレックスが入ってきた。
「どうだ、傷は?」
「動けるわ。問題ない」
「無理するな。医療班に任せてもいい」
「……時間がないでしょう」
会話は表向き穏やかだったが、空気の奥に、微かな緊張の糸が張り詰めていた。
アレックスは椅子に腰を下ろし、報告書を手に取る。
「マヤ。俺は君を信じたい。だが本部は……強く疑っている」
「知ってるわ」
マヤは短く返す。声が震えないように必死だった。
アレックスは彼女を見つめる。
「“FlightControl:Ghost”のコードに、君がかつて関わったロシアの人物の痕跡があった。これは偶然か?」
マヤの胸が凍りつく。
「偶然よ。私は何も仕掛けていない」
「だが、敵は君の過去を知っている。そして利用している。もし君が弱みを握られているなら――」
その瞬間、マヤの脳裏に蘇った。あの暗い路地裏で交わした約束。
『借りを忘れるな。いずれ返す時が来る』
ロシアの情報屋“ヴォロフ”の声が、今も耳に残っていた。
「……」
答えられない沈黙が、逆に彼女を追い詰める。
アレックスがため息をついた。
「俺は君を守りたい。だが、証拠が積み上がれば俺にもどうにもできない」
「わかってる」
マヤは視線を落とす。心の奥底で、確かに“過去の借り”が自分を罠に導こうとしているのを感じていた。
***
その頃、モスクワ。
古びた劇場を改装したクラブのVIPルーム。重低音の音楽が響く中、黒幕セルゲイは電話を耳に当てていた。
「彼女は疑われ始めた。完璧だ」
受話器の向こうで笑い声が弾ける。
「計画通りだな。FBI内部の亀裂を広げろ」
セルゲイはグラスのウォッカを傾けた。
「マヤ・ヴォルコフ。過去に刻んだ小さな傷が、今や致命傷になる」
彼の視線は、壁に貼られた一枚の写真に移る。そこには、若き日のマヤとヴォロフが肩を並べる姿があった。
「借りを返す時が来たんだよ、マヤ」
***
ホテルに戻る。
夜が更け、街のざわめきも遠く静まった。だが、マヤの部屋だけは安らぎとは無縁だった。
彼女は痛む体を抱えながら、ノートPCを開く。画面には“FlightControl:Ghost”のコードが並んでいた。
突然、暗号化されたメッセージが割り込む。
《借りを返せ、マヤ。明日、21時。取引に応じろ》
心臓が跳ねる。差出人は不明だが、その言葉には既視感があった。
――ヴォロフ。
指が震える。これは罠だとわかっている。だが従わなければ、さらなる証拠が捏造され、完全に裏切り者に仕立て上げられるだろう。
「どうすれば……」
マヤは小さく呟いた。
ドアが再び開き、アレックスが顔を出した。
「眠れてないな」
「眠れるわけないでしょ」
アレックスは黙って部屋に入り、彼女の隣に座る。
「マヤ。俺に言えないことがあるなら、今話せ。俺は敵じゃない」
彼女は必死に口を開こうとするが、言葉は喉で絡まり、出てこなかった。
その沈黙を、アレックスは重く受け止める。
「……わかった。だが、俺はまだ君を信じてる」
そう言い残して部屋を出ていった。
扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
マヤは目を閉じる。
――自分は追い詰められている。
過去の借り、黒幕の罠、FBIの疑念。
全ての陰が、彼女の足元に伸びていた。
そして、画面に再び表示されるメッセージが彼女を射抜く。
《逃げられない》