第14話 罠の発動
モスクワの夜は冷たく、そしてどこか不気味に静まり返っていた。
雪は降っていない。それなのに、街路灯の下に立つと、凍りついた空気が肌を突き刺す。マヤは黒いコートの襟を立て、深く呼吸を整えた。
右脇腹の痛みはまだ消えていない。歩くたびに鈍い疼きが響くが、表情には出さなかった。
――弱さを見せれば、終わりだ。
ホテルの部屋に届いた暗号化メッセージ。
《借りを返せ。明日、21時。取引に応じろ》
それが意味するところは明白だった。過去に関わったロシアの情報屋、ヴォロフ。彼との因縁が、今ここで甦ったのだ。
時計はすでに20時40分。指定された場所、モスクワ川沿いの廃倉庫へと向かう時間だった。
***
一方、FBIの臨時作戦本部。
モスクワ中心部の高級ホテルの一室を借り切り、複数のモニターと通信機器が並ぶ。赤や緑の光が点滅し、緊張感に包まれていた。
アレックスはモニター越しにチームを見回し、声を上げた。
「対象は本当にマヤなのか?証拠は揃っていない」
副長官代理として派遣されたウィルソンが、冷ややかな声で返す。
「アレックス、これは内部のセキュリティ問題だ。彼女が二重スパイである可能性は否定できない。リスクは排除すべきだ」
「だが、俺は彼女を信じる」
「感情を持ち込むな。現実を見ろ。コード《FlightControl:Ghost》に彼女の過去の接触者の痕跡が残っている。それだけで十分だ」
議論は平行線を辿る。
アレックスは唇を噛む。マヤの沈黙が、彼女の無実を証明することを妨げていた。だが、心のどこかで“マヤならそんな裏切りをするはずがない”という確信が揺るぎなく存在していた。
「……なら、監視を続ける。それでいいな?」
「いいだろう。ただし、彼女が黒幕と接触すれば即座に拘束する。それが条件だ」
***
マヤはタクシーを降り、モスクワ川沿いの道を歩いていた。
空は曇り、月明かりもほとんど届かない。街のざわめきから遠く離れ、川面を渡る風だけが耳に届く。
倉庫に近づくにつれ、背筋を冷たいものが這い上がる。
「……来たわよ、ヴォロフ」
錆びついた鉄扉を押し開けると、そこは広大な闇に包まれた空間だった。
かすかに灯る裸電球が、一人の男の姿を浮かび上がらせる。
「久しぶりだな、マヤ」
低くしゃがれた声。ヴォロフだ。年齢を重ねたはずなのに、その眼光は鋭く光り、若い頃と変わらぬ危険な匂いを放っていた。
「借りを返してもらう時が来た」
「私にそんな借りはない」
「あるさ。あの夜、俺を救った。命の借りだ。だが、それは裏切りの証拠としても使える」
ヴォロフは机に黒いケースを置く。
「ここに新しいキーがある。《Ghost》をさらに進化させるプログラムだ。これを受け取り、渡すんだ。さもなくば……」
彼はスマホを掲げ、画面をマヤに見せた。そこには、FBI本部に送信準備中のファイルが映っていた。
“マヤ・ヴォルコフ、裏切りの記録”
過去の接触記録と偽造データが一つのファイルにまとめられている。
「送信ボタンを押せば、君は終わりだ」
「卑怯ね」
「生き残るには卑怯でなければならん」
マヤの拳が震える。自分の過去の選択が、いま最大の罠となって迫っている。
***
その光景を、FBIの監視チームは遠隔カメラで捉えていた。
「接触確認!対象はマヤとヴォロフ!」
「やはり繋がっていたか……」
ウィルソンが低く呟く。
アレックスは声を荒げる。
「違う!彼女は利用されているだけだ!」
「証拠は十分だ。すぐに突入する」
「待て!まだだ!」
アレックスの叫びは虚しく、突入部隊が出動の準備を整えていく。
***
倉庫の中、ヴォロフがさらに一歩近づく。
「選べ、マヤ。裏切り者として終わるか、それとも俺のために動くか」
マヤはゆっくりと息を吸い、視線を鋭くした。
「……選択肢なんて、最初からないわ」
その言葉と同時に、倉庫の外で鋭いライトが一斉に点灯した。
「FBI!動くな!」
重い鉄扉が爆発的に開き、突入部隊が雪崩れ込む。銃口が一斉にマヤとヴォロフに向けられる。
「……チッ!」
ヴォロフが顔を歪め、マヤを盾に取ろうと腕を伸ばす。しかし、その瞬間マヤは脇腹の痛みに耐えながらも素早く身を捻り、彼の手を払いのけた。
「私は誰の人形でもない!」
叫びと同時に、彼女のブーツがヴォロフの膝を蹴り砕く。男が崩れ落ちる。
だが――FBIの銃口は、なおもマヤに向けられたままだった。
「彼女を拘束しろ!」
ウィルソンの命令が飛ぶ。
「待て!彼女は敵じゃない!」
アレックスが前に飛び出すが、部隊は躊躇わない。
マヤは銃を向けられ、息を飲む。
――本当に、私はここで終わるの?
そのとき、ヴォロフが呻きながら叫んだ。
「バカども……本当の黒幕は、俺じゃない……」
全員の動きが止まる。
その一言が、場を揺るがした。
***
混乱の中、マヤは必死に声を上げる。
「聞いて!私を罠に嵌めたのはヴォロフじゃない!黒幕はもっと別の場所にいる!」
銃口はなおも彼女に向けられていた。
しかしその瞬間、アレックスが一歩前に出て、彼女の前に立ちはだかった。
「撃つなら、俺を撃て。彼女を裏切り者と決めつけるなら、俺も同罪だ」
静寂が走る。誰も動かない。
緊張の糸が切れる寸前、遠くの闇の中で微かな笑い声が響いた。
「やはり面白い。FBIは内部から崩れる」
セルゲイの影が、倉庫の奥から現れる。
――罠は、まだ発動したばかりだった。