TRAZOM@さるさる横丁 -6ページ目

[4211]京都大賞典はボッケリーニを単勝買いして阪神競馬場で観戦しました

【今日の一枚】
ボッケリーニ: ギター五重奏曲第4番「ファンダンゴ」
〔サヴァール=ル・コンセール・デ・ナシオン〕
[CD]Alia Vox◎AVSA9845



7:00起床。

今日は阪神競馬場に来てます。

メインの京都大賞典G2は、もちろんボッケリーニの単勝1点買い。

 

 

お昼は早めのかつ丼で景気づけ!

 

 

ところが・・・です。

ボッケリーニは惜しくもない2着!

昨日から松山弘平騎手は乗れてますね。

要注意だったんですが・・・。

複勝にしときゃよかった。

 

ボッケリーニは残念な結果でしたが、

本家本元のボッケリーニのCDはオススメです!

なってたって、音楽がノリノリで、キレもある。

リズムに乗って、体が自然と左右に揺れてます。

すると、悔しい思いは吹っ飛んでしまいました。

 

 

 

 

 


 

[4210]音楽は時間ではなく空間の芸術としつつ時間と空間に制約される矛盾

【今日の一枚】
一柳慧: 「ザ・パイル」+「弦楽器のために・第2」
〔一柳慧(p?)小野洋子(vo)小林健次(vn?)〕
[CD]OMEGA POINT◎OP-0014



8:00起床。
Yahoo!ニュースから。椎名林檎さんの11月発売アルバムの関連グッズがヘルプマークと酷似したデザインだとか。当然、批判の声がTwitterで現れているそうです。
ボクも市役所でヘルプマークをもらいましたが、使ってません。中に便せんみたいに要望等を書くようになっているのですが、字が書けない自分には無理な話。
仕方なくパソコンで自作して、お薬手帳と兼用。さらには障害者手帳と抱き合わせで使っています。
両方の画像を組み合わせてみました。右が椎名林檎なんのです。ネットから加工したのですが、これも著作権侵害と言われるかな? いいですよ、かかってきなさい。何がいけないのか説明してみなさいよ。

 


椎名林檎さんがどう対応するかわかりませんが、医師の前田陽平さんがおっしゃるように<このニュースをきっかけにヘルプマークについての認知が広がり、ヘルプマークを持つ方が援助を受けやすくなるように期待したい>と思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3dce1135a3e1c59e0983a0195bd070cfcf3383c1


○オノ・ヨーコ
作曲家の一柳慧が亡くなった。この頃、訃報のことばかり書いているようで、何だか淋しくなる。一柳慧を知らない方でも、オノ・ヨーコの元夫といえば「そうだったのか」となるだろう。
ボクがオノ・ヨーコを実際に接したのは、2001年の横浜トリエンナーレに出品された『貨物車』である。銃弾に撃ち込まれた実物の貨物車を展示し、天に向けてサーチライトを灯す。戦争の実態をトリエンナーレで表現するという大胆な手法だった。
もちろん、ジョン・レノンはこの世にいないが、彼らが知り合った1966年はベトナム戦争の最中で、当時の記憶が横浜トリエンナーレにも引き継がれていたことになる。

○時間よりも空間の芸術
一柳慧はジョン・ケージを日本に知らしめた作曲家として有名だ。1961年に帰国して、草月アートセンター主催でコンサートが行われた。このコンサートにおいて、ケージをはじめとする前衛音楽を催し、話題となる。翌年ケージを日本ケージが初来日、音楽界にショックを与えたという。
その「前夜」と称するアルバムで、一柳慧の弾くピアノ(内部奏法)と小野洋子のヴォイスが聴かれるが、正直ボクにはさっぱり理解不能の音楽?だった。
訃報を伝える記事(朝日デジタル)の中に<西洋音楽に懐疑的だったケージの影響で、「音楽は時間ではなく空間の芸術」と、自身で自由にシステムを構築できる図形楽譜に傾倒する>とある。
図形楽譜がどんなものかをボクは伝えることができない。しかし<自身で自由にシステムを構築できる>とは、演奏家自身がどこで・いつ・どのように演奏?しても構わない。だから演奏は1回きりの偶然性の結実でしかなくなる。

○現実との矛盾
ならば、それをアルバム化して永遠のものとして存在させることに矛盾は生じないのか。
<時間ではなく空間>としつつ、この世は時間に支配されている。ボクは病院にいたから時間に束縛された生活を送っていた。午前6時に検温、午後5時に夕食で9時になれば消灯・・・。まあこれが極端だとしても、この世は時間だらけ。
ジョン・ケージや一柳慧がどんなに<時間ではなく空間>とあがいてみても、彼らの作品を発表する場(コンサート会場)=空間や開演時間に制限されるわけで、作品がいかに空間的であろうと、自由にはなりえない。

一柳慧の訃報にいろんなことを考えさせられた。作品には結局理解できなかったが、ケージやオノ・ヨーコを思い起こさせてくれたことに感謝したい。
 

[4209]メニュー豊富な定食屋でシェフは一流で味もピカ一のバレンボイム亭

【今日の一枚】
チャイコフスキー: 序曲「1812年」、イタリア奇想曲、スラヴ行進曲
〔バレンボイム=シカゴ交響楽団〕
[CD]DG◎UCCG-9555



8:00起床。
気温が下がったので、電気あんかを使い始めた。それで敷き毛布を替えていたら、あら?ThinkPadの赤ボッチがこんなところに。まぁまぁキーボードから遠くまで出張してたんですね。
今日から阪神競馬が始まった。図書館へ行くので阪急・西宮北口駅を降りたら普段より多い人出が。ボクも明後日(10日)行きます。京都大賞典G2が楽しみです。

○バレンボイムの平和への希求
バレンボイムのシューベルトを「平和やなあ」と書いたらお叱りを受けた。ユダヤ人の出自を超越したところで中東問題、パレスチナ問題と向き合い、実際にオーケストラを結成するなど諸活動を行っている。故サイードとの著書『バレンボイム音楽論-対話と共存のフーガ』に詳しいが、とにかく平和ではない状況に身を置かされているのである。戦闘のない日本では考えが及ばないのだけど。
「平和やなあ」とつぶやいたのは、バレンボイムが理想とする平和を音楽の上で作ろうとしているのではと感じたからだ。

○一流の定食屋
シューベルトをはじめとする独墺系だけじゃない。今日はチャイコフスキーを聴いたが、なかなかどうして、立派な演奏じゃないですか。30代の頃の録音で、評論家の受けはイマイチだったのが不思議なくらい。
「1812年」は演奏が明瞭な点に惹かれた。弦楽器の刻みや強弱もきちんと再現されている。ご自慢のブラスも健在。左右に広がる臨場感もすばらしい。今キャノン砲が空を舞うように鳴っている。いやでも興奮してしまう。
一方、スラヴ行進曲はゆったりとしたテンポで少し粘って堂々と聴かせる。
こうなれば、バレンボイム亭は何でもござれの一流の定食屋みたいなもんだ。
悪く言っているのではない。これだけメニューが豊富で、しかも味も一流とくれば、どこに文句がつけられようか。むろんミシュラン星3つとかは遠いけど、それは別のお楽しみとなる。

○先人からのたまもの
シカゴ響の凄さを改めて開眼した、といえば大げさだが、他に言葉がない。ここのオーケストラは戦後フリッツ・ライナーが、そしてショルティが引き継いだ。ともにハンガリー出身の指揮者。おまけにオケをゴシゴシしごく技にかけては他の追随を許さない。
そんなオーケストラビルダーに鍛え上げられたシカゴ響なもんだから、若者の指揮者が振っても「仕事きっちり」の演奏をするのは予想に難くない。
音楽家は一人ではどうにもならない。オケあっての指揮者であり、ピアニストには調律師がいる。リヒテルが日本をこよなく愛したのはヤマハのピアノに出あったからだと言われている。
バレンボイムもシカゴ響という素材があって、ライナーやショルティが下ごしらえをし、レシピを残してくれたからこそ、お客さんに出して恥じない定食ができるのである。
 

[4208]シューベルトもバッハもベートーヴェンもモーツァルトもそれらしく

【今日の一枚】
シューベルト: ピアノ・ソナタ第19番
〔バレンボイム(p)〕
[CD]DG◎4792783(輸) ※全集5枚組



7:00起床。
ずっと雨が降り続いてます。今日はWHILLさんぽを中止して、CD三昧の一日を過ごすしかありません。気温も下がってきてて、東京では最高13度だって! 急激な気温変動は体調管理が大変です。

○平和なシューベルト
リヒテルの後で、聴き比べのようにしてバレンボイムを聴いてみた。
平和やなあ、というのが第一印象。バレンボイムを聴いてからもう一度リヒテルに戻ってみた。鬱屈した抑圧がそこにある。第4楽章も「開放感に満ちた」と昨日書いたが、手放しで喜べるものではなく、外圧で無理に開放をよそおっている風な感じがした。外圧、当時のソ連当局によって強制された開放。
ふとショスタコーヴィチを思い起こした。彼の曲の喧噪たる楽章。例えば第9交響曲の最終楽章。あるいはヴァイオリン協奏曲の第2楽章。本心からの開放には思えないウソの世界。
それに比べたら、バレンボイムのシューベルトは何と平和な世界だろう。誰にもじゃまされず、自身をそのまま表出できる世界。

○シューベルトはシューベルトらしく
極端に走らず、極めて冷静で細部にも神経が行き届いている。どの曲も平衡感覚があって、安心安定のピアノ。こう書けば無個性と捉えられそうだが、全く違う。シューベルトの歌心も十分に表現しているし、強弱のあんばいも見事の一言に尽きる。
シューベルトをシューベルトらしく。もし何かが足りなければ、聴く側で補正してやればいい。基礎の基礎をバレンボイムは提示しているだけなのだ。
そういえば、同じことがモーツァルトにも言える。ピアノ協奏曲やピアノ・ソナタはモーツァルトらしさを十全に表出している。研ぎ澄まされたハスキルや宝石のようなカサドシュ、ピリスの清冽さなどは望むべくもない。が、バレンボイムのどこに不満があろう。バッハの平均律だって、他の名盤に伍してやまない。

○最初は嫌いだった
ボクが最初にバレンボイムを聴いたのがブルックナーだった。たしかシカゴ交響楽団だったか。こんなに大仰にやってぶち壊しじゃないか。そこにはフルトヴェングラーの影があった。当時ボクは朝比奈隆に親しんでいたから、横綱と前頭のような位置づけだった。
細君デュ・プレとの関係も音楽家としてどうかと思わせた。彼女が多発性硬化症に冒され、ボクのまわりに同じ病気の知人がいたせいもある。人としてほっとけないよ、それで音楽やっても何も感動させられないじゃないか。

○八面六臂の活動
それがどうだろう。先述のモーツァルトは今でも愛聴している(少なくとも内田光子より格段いい)し、今日のシューベルトも全曲楽しめた。長時間無心に全曲聴き通したのは珍しいくらいだ。
ピアノ・ソナタはベートーヴェンやモーツァルト、ショパンを手がけ、指揮もニューイヤーでウインナ・ワルツまで振っている。ドイツ音楽だけでなく、チャイコフスキーだって一流。母国アルゼンチン・タンゴも録音し、アルゲリッチとの共演もある。
そんな平和なバレンボイムとマイナスイメージとがそぐわなく、ボクの中で混乱するばかり。一体どっちが本当なんだろう。
好きじゃないのに気になってしまう。聴かないようにしておきたい。なのに一度は聴いてみたくなる。そんなヘンなバレンボイム。
 

[4207]歌が途切れ息絶えそうなリヒテルのピアノもまたシューベルトの一面

【今日の一枚】
シューベルト: ピアノ・ソナタ第19番
〔リヒテル(p)〕
[CD]Alto◎ALC1074(輸)



8:30起床。
気温が下がって起きれなかった。気温15度がボクにとって体調の分岐点(用語が違うかな?)みたいで、予報では明日にもなるそうです。みなさんも体調管理、お気をつけください。
失ったThinkPadの赤ボッチ、お助けマンのAmazonから届けられました。パソコンで何でもできるが、こんな小さな部品一つで何かやるにも面倒だと思い知らされました。

○本当にメヌエット?
リヒテルのシューベルトを聴いたのはいつのことだったか。最初に聴いたピアノ・ソナタ第19番。そのメヌエットに衝撃を受けた。衝撃とは、それ以降他のピアニストがどのように弾こうが、陳腐に聞こえてしまう不幸を意味している。
とにかくテンポがのろいのだ。今にも息絶えそうな、死んでしまいそうなテンポ。どこか孤独でいたたまれない。奥深い井戸を覗き込んでしまった、そしたら思わず吸い込まれてしまいそうな恐怖感。ああ聴くんではなかったという後悔が残る。

○鬱と躁の二重性
死の淵をさまようようなメヌエットが終わって第4楽章に入った途端、これまでの様相から一変。天真爛漫な開放感に満ちた演奏が続く。一体どうしたのだろう。この脳天気とも呼べる第4楽章と直前のメヌエットとがかけ離れており、その整合に頭がついてゆけないのだ。リヒテルの意図だったのか?
言葉が適切ではないが、ボクは躁鬱状態を想起した。第3楽章メヌエットは精神が沈み込む鬱(うつ)で、第4楽章アレグロはあたり構わず笑い転げる躁(そう)ではないか。

○人間の二面性を示したリヒテル
どちらもハ短調だ。しかし同じ調性でこんなに真反対だとは。
相反する両楽章だが、ボクにはこれが人間の二面性であり、リヒテルは狙ってデフォルメしたのではないかと思った。
死の直前(2ヵ月前)に一気に書かれた3曲のピアノ・ソナタ。最後の第21番がよく取りあげられて最も有名なようだが、ボクにはこのリヒテルによる第19番が忘れられない1曲になってしまった。
ちなみにリヒテルのシューベルトはかつてOlympia原盤として日本ビクターからLPで出ていた。その中には東京でのライヴ(第13番と第14番)も含まれていたが、近年Altoレーベルから再発され、音質も向上されている。それも今は入手がしにくい状態だが、どこかのレーベルで引き継いでもらいたいものだ。
 

[4206]名曲とか名演といった他人の言葉にとらわれず自分の感性を信じたい

【今日の一枚】
シューベルト: 歌曲集「冬の旅」
〔フィッシャー=ディスカウ(Br)ムーア(p)〕
[CD]DG◎UCCS-50157



7:00起床。
昨日はバタバタして、横丁も前振りだけで配信してしまいました。すみません。
横丁を書きかけた途端、急用ができて車で外出。帰ってきて銀行へ走り(もちろんWHILLでです)戻ってきてまた車で外出。夕方帰ってきたらクタクタ、もう何もやる気が起きなくて、そのままでした。

○Jアラート専用チェンネルを
今朝のNHK-BSプレミアムは正平さんの「とうちゃこ」が変な編成で、昨日放送できなかった朝版が1日遅れで放映。見てた人にはわかるでしょうが、ものの順序ってあるんや! 朝ドラも2日分まとめて放映しよったし。
ひとえにJアラートが発せられたからだ。でBS放送まで割を食らって臨時ニュースに。しかも地デジもBS1もBSプレミアムもおんなじ中身やんか。
NHKに言いたい。全国津々浦々、朝ドラを含めて一斉中止させる意味がどこにあるのか。こういう有事の際に専用チェンネルができないものか。もしくは、画面の下に臨時ニュースを流して、通常番組を見たい人を尊重すべきではないのか。

○好きになれないのは
シューベルトがどうしても好きになれない。なぜだろうと考えていた。養護学校にいた頃の話。音楽の授業でたしか「魔王」だったかを聴かされた。まさしく「聴かされた」のであって「聴いた」のではない。
教師は先生口調で「歌曲の王と呼ばれています」「これはドイツの有名な歌手によるものです」とのたまう。どこがええんやとボクは反発した。メロディはきれいだし、歌もドラマチック。でも頭の上をスルーして歩止まりをしてくれない。それどころか、ウソくさい世界を見せられているような思いを抱いたのだった。
あまりにきれいすぎる。蕩々と歌われるシューベルトは欠点のない完璧さをもってボクに迫ってくる。こういうのが苦手。ボクのまわりは言語障害やどもり(吃音というらしい)の友人ばかり。流れるような歌曲はボクのまわりに存在しないのだ。
ではモーツァルトはどうなのかと問うてみる。同じく美しく流れるようなメロディ。だが、モーツァルトにはその先がある(ような気がする)。

○フィッシャー=ディスカウという牙城
不世出のバリトンと言われ、例えば音楽之友社が出す『100の名曲名演』なんかの常連でもある。ドイツ語がはっきりしていて、こりゃ学生や教師には受けがいいだろうなと想像がつく。
フィッシャー=ディスカウ「冬の旅」を一度聴いてしまえば、他の歌手なんか聴けないと思わせる魔力さえある。それは一つの牙城であり、一種の権力にもなりかねない。
もちろんフィッシャー=ディスカウが悪いのではない。また彼を賞賛する人を批判しているのでも決してない。悪いのは「不世出」などと言葉巧みに世評をつくりあげ、レコードの売り上げに貢献しようとする取り巻き連中なのだ。その言葉にとらわれずあなたやあなた、そしてわたしの感性で接する習慣をもちたいと願うばかりだ。
 

[4205]音楽の授業でシューベルトを聴かされて以来どうにも好きになれない

【今日の一枚】
シューベルト: 菩提樹、魔王、野ばら、ます、他
〔フィッシャー=ディスカウ(Br)ムーア(p)〕
[CD]ワーナー◎WPCS-50058



7:00起床。
横丁を書くためパソコンを開けたら、Jアラートがきているではないか。今回は北ミサイルが日本上空を通過したとかで、そら大変なことです。でも日本は「情報を収集・分析」し「強く抗議」するで終わるんでしょうね。
①なぜ、いつも韓国軍からの情報なのでしょうか? 自国の情報網でJアラートが発せられなく、隣国に頼っていては竹島問題など到底解決されません。
②貧窮な北朝鮮がミサイルを何発も製造できるなんて不思議です。ひょっとして旧統一教会から資金が流れてるんじゃない?
③Jアラートってホンマに有効なんですか? ヤフコメ見てたら、Jアラートが鳴った時にはすでにミサイルが通過していたとありました。やってる感だけで日本の国防が成り立っているとしたら、国民を守るなんてできやしません。
・・・と素人考えですが、誰かボクの邪推を論破してください。
 

[4204]無念!凱旋門賞でタイトルホルダーもドウデュースも夢をありがとう

【今日の一枚】
ベートーヴェン: 交響曲第3番「英雄」
〔サヴァール=ル・コンセール・デ・ナシオン〕
[CD]Alia Vox◎AVSA9916(輸)



7:00起床。
今年も凱旋門賞の壁は厚かった! Mr.サンデーでリアルタイムで見てました。武豊と同期の蛯名正義さんの解説だったけど、直前に降り出した大雨。重馬場で過酷な条件の中、タイトルホルダーが先行してたのも苦しいように映ってました。
実況ではドウデュースの「ド」もコールされず、結果19着。残念ですが無理しなかったんでしょうね。日本馬4頭、それに騎手の皆さん、夢をありがとうございました。

○凱旋門
凱旋門について、Wikipediaで調べてみました。正式にはエトワール凱旋門というそうで、<アウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった>とあります。
古代ローマの様式を模した新古典主義の代表作とも言われています。はて、新古典主義ときいて、代表的な作曲家の一人、ブラームスが思い浮かびます。ブラームスにとっての古典とはバッハやベートーヴェンでした。バッハのシャコンヌをピアノ編曲したりしています。あの時代よもう一度、というわけでしょうか。
エトワール凱旋門はローマ帝国の夢を再現しようと造られたのかもしれません。
凱旋門賞で優勝した日本馬が「凱旋」する日を待ち望みたいものです。

○LP時代の「英雄」
ベートーヴェンの「英雄」を最初に聴いたのがフルトヴェングラーのLPでした。極めて遅いテンポのため、第2楽章の途中でA面からB面にひっくり返さなくてはいけない。だからCDを聴いても、その箇所を記憶していて具合悪いことになるんです。
大仰な音楽のつくり、テンポの揺れ、これがみんな持ち上げたフルヴェンかと。ボクは正直ついてゆけませんでした。
次に聴いたのがイッセルシュテット。ウィーン・フィルの柔らかい音色で聴きやすかったけど、宇野功芳の解説がじゃまだったのを鮮明に覚えています。後半の楽章が弱いとけなしていたからです。そんなん聴き手の自由やんか。著名な評論家か知らんけど、おのれの感想を解説に書きなぐるんやないで!と反発したくもなります。

○古楽器以降の「英雄」
ブリュッヘンが18世紀オーケストラと録れたCDが出て以降、フルオーケストラも触発されたようです。アバドやラトルなどもそうですし、その中で最近のサヴァール盤をよく聴いています。ちょっと前のめりのテンポが気になりますが、第2楽章の葬送行進曲も、まるで早足で舞曲のようでもあります。エリザベス女王の葬列を1.5倍速で見ている感じといえばいいでしょうか。
このテンポはブリュッヘンが先駆けたものですが、サヴァールはより咀嚼されているというか、雄渾さが加わったジャケ写真どおりの演奏です。
パリのエトワール凱旋門にふさわしい、そして2022凱旋門賞の明けた日に聴くに絶好の「英雄」として取りあげてみました。
 

[4203]ルプーのリリシズムを引き立てたプレヴィンの指揮を評価してほしい

【今日の一枚】
シューマン&グリーグ: ピアノ協奏曲
〔ルプー(p)プレヴィン=ロンドン交響楽団〕
[CD]DECCA◎POCL-6028



7:30起床。
トラックポイントがなくなった!
横丁で使っている愛機ThinkPadの中央にある赤いやつ。あれがどっかへ消えてしまったのだ。いやきっと誰かの陰謀で隠したにちがいない。ムムム。
というわけで昨日はトラックポイントなしで操作していたら、えらい時間がかかった。アメブロもキーだけじゃ難儀するのだ。マウスを使えば?・・・いやいや左手のみで操作しているので、マウスなんてとてもとても。
ふと、イヤフォンピースが嵌められないか試してみた。下の写真、GHBNに囲まれたところです。何とかいけそう。Amazonで注文したのが着くまでこれで辛抱するか。



○鬼籍に入られたのを知らずに
タワーレコードのサイトを見ていたら、去年から今年にかけて亡くなった音楽家が掲載されている。ベルガンサ、フレイレ、野島稔、大町陽一郎(敬称略)などなど。どれもレコードやCDでなじみのあるお名前が続く。
アントニオ猪木が亡くなられたショックからか、そうやね皆死んでいく年なんやねと納得させつつ、淋しい限りだ。
そんな中、ルプーの名前もある。すでに引退し病気療養中だったとか。知らなかったなあ。

○千人に一人のリリシスト
レコード会社の戦略か、ルプーを「千人に一人のリリシスト」と宣伝し売り出していた。なるほど詩情的で細やかなピアノはリリシストと呼ぶにふさわしいが、反面女々しさを感じもさせた。女々しさなんて書くと差別や!と怒鳴られるかも。でもかつては雄々しさの反対語として、あるいはピアノは強く鳴らさなければとの風潮の反逆として使われていた。「女」や「雄」という漢字がいけないんやね。
曲想からいってモーツァルトやシューベルトが合いそう。とはいえ、弱々しいだけのピアノに感じられて満足できなかった。多くのピアニストが録音しているから、その中に割って入るのは大変なこと。ある意味かわいそうな気もする。

○グリークの絶品
シューマンとグリーグのピアノ協奏曲を録れたレコードをずっと愛聴していた。一昨日の[4101]では、予定調和すぎるとあまりいいようには書かなかったけど。
多くのレビューのとおり、ルプーのが決定盤といってよかった。もうこの1枚で十分。これ以上の演奏は望めないし、特にグリーグは心の襞に寄り添ってくる名演だった。
ルプーのピアノもいいが、ボクにはプレヴィンの指揮がよかった。ピアノをじゃますることなく、付かず離れずの関係で見事に引き立てている。
プレヴィンはジャズから始まって、女優ミア・ファローと結婚したりで、どうもクラシック畑の専門家からは正当に評価されていない。音はきれいだが、深みがない・・・といったふうに。
でもこのCDの伴奏指揮はピカ一だ。プレヴィンでなければ、リリシズムもへっちゃらもなかった。このグリーグを聴きながらルプーをしのぶ朝でした。

[4202]食欲の秋!芸術の秋!だが値上げの秋で気持ちが萎んでしまう秋でも

【今日の一枚】
ベートーヴェン: 交響曲第9番「合唱」
〔ベーム=ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〕
[CD]DG◎UCCG-90462



6:00起床。
おはようござます。今日から10月。今年もあと3ヵ月なんですね。時の経つのは早い(泣)
値上げの10月でもあります。酒、食料品、そうそうガソリンもこちらでは162/ℓで高止まり。電気代も上がると通知がきました。曰く、円安とウクライナ情勢だとか。
障害基礎年金だけの生活、どこを切り詰めたらええんやろか。「そら、CD代を真っ先に削るべきや」・・・スンマセン(トホホ)

○CDコンサート
毎月、図書館で行ってくれているCDコンサート。10月やいうのに季節はずれの第九だった。音源は最晩年のベーム盤。意外と言っては失礼だが、弛緩することなく、ゆったりとしたテンポで噛んで含めるような演奏。ところが第4楽章でソロが入るや、スイッチが入って速くなる。それも中間部のマーチまで。あとは叩いてもびくともしない悠然とした演奏が繰り広げられる。
最後の最後、合唱とオケがほんのわずか合わず、それがなければと思いつつも内心はほほえましかった。

○純音楽としての第九
一切の演出なし。盛り上げようとか山場を作るといった気もさらさらない。もちろん年末の第九といったイメージが介在する余地もない。
私たちは第九は年末に聴くものといった刷り込みに洗脳させられている。誰かによって勝手につくられた商業的戦略なのかもしれない。
そうした衣装を脱ぎ捨てて純粋に聴いたらどうだろう、とベートーヴェンでさえ言うに違いない。

○アントニオ猪木!
猪木が亡くなったという報を受け取ったのは、第3楽章が始まったあたりだった。
円楽師匠といい猪木といい、どうしてこうも訃報が重なるのか。
ボクが県立のじぎく園に入所していた頃。唯一テレビを見るのを許されたのがプロレス中継だった。中継が終わると館内消灯となって、みなさんお休みなさいとなる。
あの頃はまだ猪木と馬場がタッグを組んでいて、コブラツイストが決まると看護師さんや保母さんたちも総出で喝采していた。今から思えばテレビを見たかったのは看護師さんだったんじゃないだろか。
さあかかってこいと両手でポーズする猪木。手足の不自由なボクらには決してできない仕草だった。だから「できないこと」を猪木や馬場が代わりに体現してくれているような。
モハメド・アリとの一線や馬場と分かつ時期あたりからボクもプロレスから離れていった。だが、のじぎく園での一コマは確かに記憶の底にとどまっている。
言いたいこと、書きたいことがいっぱい湧いてきて涙が出そうになる。このへんで止めときます。どうか安らかに。