[4210]音楽は時間ではなく空間の芸術としつつ時間と空間に制約される矛盾 | TRAZOM@さるさる横丁

[4210]音楽は時間ではなく空間の芸術としつつ時間と空間に制約される矛盾

【今日の一枚】
一柳慧: 「ザ・パイル」+「弦楽器のために・第2」
〔一柳慧(p?)小野洋子(vo)小林健次(vn?)〕
[CD]OMEGA POINT◎OP-0014



8:00起床。
Yahoo!ニュースから。椎名林檎さんの11月発売アルバムの関連グッズがヘルプマークと酷似したデザインだとか。当然、批判の声がTwitterで現れているそうです。
ボクも市役所でヘルプマークをもらいましたが、使ってません。中に便せんみたいに要望等を書くようになっているのですが、字が書けない自分には無理な話。
仕方なくパソコンで自作して、お薬手帳と兼用。さらには障害者手帳と抱き合わせで使っています。
両方の画像を組み合わせてみました。右が椎名林檎なんのです。ネットから加工したのですが、これも著作権侵害と言われるかな? いいですよ、かかってきなさい。何がいけないのか説明してみなさいよ。

 


椎名林檎さんがどう対応するかわかりませんが、医師の前田陽平さんがおっしゃるように<このニュースをきっかけにヘルプマークについての認知が広がり、ヘルプマークを持つ方が援助を受けやすくなるように期待したい>と思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3dce1135a3e1c59e0983a0195bd070cfcf3383c1


○オノ・ヨーコ
作曲家の一柳慧が亡くなった。この頃、訃報のことばかり書いているようで、何だか淋しくなる。一柳慧を知らない方でも、オノ・ヨーコの元夫といえば「そうだったのか」となるだろう。
ボクがオノ・ヨーコを実際に接したのは、2001年の横浜トリエンナーレに出品された『貨物車』である。銃弾に撃ち込まれた実物の貨物車を展示し、天に向けてサーチライトを灯す。戦争の実態をトリエンナーレで表現するという大胆な手法だった。
もちろん、ジョン・レノンはこの世にいないが、彼らが知り合った1966年はベトナム戦争の最中で、当時の記憶が横浜トリエンナーレにも引き継がれていたことになる。

○時間よりも空間の芸術
一柳慧はジョン・ケージを日本に知らしめた作曲家として有名だ。1961年に帰国して、草月アートセンター主催でコンサートが行われた。このコンサートにおいて、ケージをはじめとする前衛音楽を催し、話題となる。翌年ケージを日本ケージが初来日、音楽界にショックを与えたという。
その「前夜」と称するアルバムで、一柳慧の弾くピアノ(内部奏法)と小野洋子のヴォイスが聴かれるが、正直ボクにはさっぱり理解不能の音楽?だった。
訃報を伝える記事(朝日デジタル)の中に<西洋音楽に懐疑的だったケージの影響で、「音楽は時間ではなく空間の芸術」と、自身で自由にシステムを構築できる図形楽譜に傾倒する>とある。
図形楽譜がどんなものかをボクは伝えることができない。しかし<自身で自由にシステムを構築できる>とは、演奏家自身がどこで・いつ・どのように演奏?しても構わない。だから演奏は1回きりの偶然性の結実でしかなくなる。

○現実との矛盾
ならば、それをアルバム化して永遠のものとして存在させることに矛盾は生じないのか。
<時間ではなく空間>としつつ、この世は時間に支配されている。ボクは病院にいたから時間に束縛された生活を送っていた。午前6時に検温、午後5時に夕食で9時になれば消灯・・・。まあこれが極端だとしても、この世は時間だらけ。
ジョン・ケージや一柳慧がどんなに<時間ではなく空間>とあがいてみても、彼らの作品を発表する場(コンサート会場)=空間や開演時間に制限されるわけで、作品がいかに空間的であろうと、自由にはなりえない。

一柳慧の訃報にいろんなことを考えさせられた。作品には結局理解できなかったが、ケージやオノ・ヨーコを思い起こさせてくれたことに感謝したい。