日本を語る時、よく“欧米”を持ち出す。

「欧米ではすでに○○なのに…、日本はまだまだ遅れている」というような言い方だ。

確かに、一度権力を手にした者が、その果実を手放すことになるような仕組みを作り上げたことだけでも、日本では不可能だっただろう。

政治、経済、文化に至るまで、欧米は常に世界をリードしてきた。

さらに、私たち関係者にとっては、何よりも教育の手厚さや先進性はすごいとしかいいようがない。

私たちの目標であり、憧れであり、夢の国々であり続けた欧米。

その地を初めて訪れた感動を~ロンドンで噛み締めていた。

が、その時から実に20年を経て…、そのイメージが脆くも崩れかけてきた。

その原因は、紛れもなく~wiltomoさんの『イギリス毒舌日記』。

あの時、私が目撃した表面的なイギリスではなく、まさに生活者の目線で大英帝国の実態を鋭く観察し、その現実をえぐりとっていく…。

そこには、長年私が抱いていた“Respect”とはおよそかけ離れたイギリスがあった。

だが、当初「一刻も早く日本に帰りたい」と切望していたwiltomoさんの気持ちも、微妙に変化してきたようにも感じる。

それは、滞在が長くなるにつれ、少しずつ彼女がその違いを楽しむ余裕が芽生えてきたこと。さらには、イギリスの人々や文化といえども多様であり、確かに日本にはないよさもあることに気づき始めたからではないだろうか。

文化とは生活にこそ根差していて…深い。そして、その深さは、住んでみてこそわかってくる。

そこに、真の国際理解のための大きな鍵があるのではないか~wiltomoさんのブログを読んでしまった後、改めてそう感じた。

数年前、彼女は、イギリスで可愛らしい女の子に恵まれた。今のところ、日本とイギリスの国籍を持つ子どもである。

彼女にとっても、両方の民族の血をひくその子どもにとっても、イギリスの地で様々なドラマが待ち受けているだろう。

~“ダブル”のよさを引き継ぎながら…、その未来に幸多かれとビックリマーク
アビーロードから、ハイドパークへ。さらには、バッキンガム宮殿、ビッグ・ベン、そして地下鉄を乗り継ぎ、ピカデリーサーカスへ至る。

“英”語を生み出し、世界中に広めていった国。人類史上初の市民革命を成し遂げ、民主主義という考え方を実現した国。“蒸気”という人力以外のエネルギーを使い機械を動かし始め、産業革命を成し得た国。~そして、何といっても“ビートルズ”を生んだ国…。

まさに、その地に自分はいるんだ~あらゆる感覚器を研ぎ澄ませながら、私はイギリスを受け止め、体全体で味わった。

そして、自分の中でのイギリスに対する“Respect”は、益々大きくなっていったのである。
ビートルズの存在を知ってから、実に17年後…、私はついに憧れの国~イギリスのヒースロー空港に降り立った。

本当は、イギリスの中でも、彼らが生まれ育った『聖地』~リバプールを訪れたかったのだが、その時の旅程の都合上、ロンドンのみの滞在となる。

しかし…、ロンドンにも、ビートルズファンにとっての数々の聖地はあった。

そのナンバーワンは何と言っても“ABBY ROAD STUDIO”。

何がなんでも、私は真っ先にそこを訪れたのである。

“Come together”“Her Majesty”“Something”…、次々とそれらの名曲が頭の中を巡る。

あの日あの時、バラバラになりかけていた彼らは再び融合し…、正にこの場所で、最後のすごい創作を成し遂げた。

今、その同じ場所に自分が存在している~その事実だけで胸が熱くなり、鳥肌が立つ。

彼らと同じ空気を吸いながら、ゆっくりとスタジオ周辺を散策する。

“IドキドキJOHN”など、歩道に面した外壁には世界中のファンによる落書きがびっしりと書き込まれていた。

その歩道から、向かい側の歩道まで続いている横断歩道が目に入る。

その横断歩道こそが、(おそらく)世界中で最も有名な“あの”横断歩道だったのだ。

もちろん、私はすぐさま(PAULの如く)裸足となり、彼らと全く同じ動線上を一歩一歩踏み締めていく。

その瞬間、私の感動は~紛れもなく頂点に達した。
「“かぐや姫”になりたい」と、ギターをかじり始めていた中学の頃…、hiro少年はさらなる衝撃的な出会いを果たす。

それは、THE BEATLESとの遭遇。

「まぁ、いっぺん聴いてみ~」と友達が貸してくれたカセットテープから、“She loves you”は流れてきた。

全く何を言ってるかわからなかったが、その英語とサウンドのかっこよさにシビれ…、一気に虜となってしまったのである。

その時から、どっぷりと彼らの世界に浸っていく。

レコード、映画はもちろんのこと、その伝記まで何冊も買い求めて精読する徹底ぶりだった。

そんな中で、彼らを生んだ国“イギリス”への憧れと興味がどんどん深まっていったのは、~必然であった。
片道25分(すなわち往復50分)くらいだろうか。

その毎日のバス&電車タイムに何をするかを考える。

カバンの中には、常に『文庫本』『仕事上読まなあかん書類』『ブログを綴るための旅行メモ』などが入っている。

が、実のところ、朝は眠気にうつらうつらしながら…、帰りは疲れ果ててボーッとしながら…、その貴重な時間が過ぎてしまうことが多い。

最近、その通勤時間にズッポリとハマってしまっていることがある。

それは、あるブログの愛読。

そのブロガーは、ナースとして日本でバリバリと働いていた。そのキャリアも積み上がり、まさに油がのってきた頃、彼女は“結婚”という節目を迎える。

それは、とてつもなく大きな…いやいや~そんな言葉では表せないほど劇的な転機となる。

結婚相手がイギリス人だったから。

彼女は住み慣れた大阪を離れ、遥か遠く離れたカーライルというイギリスの片田舎に住むことになったのだ。

そこは、大阪とは全く違った~まさに異文化ワールド。

そこでの生活は、彼女にとって、全ての常識が覆えるほどの驚愕の日々となる。

もちろん、周囲には日本のメンタリティで日本の心を日本語で共感し合う相手が誰もいないため、そのストレスは半端なく高まっていった。

それを彼女は、ブログに吐き出していく。

自分の本音を全く包むことなく、毒として噴出させていく。

それが、何ともスカッと痛快で、とにかくめっちゃおもしろい。

こういうブログに出会いたかった。

それよりも、自分も異質なものに触れながら、こういうブログを綴ってみたかった。

とにかく…、オススメのブログです。
私自身、(相変わらずの仕事中心の生活だったので)彼にはあまり関われてなかったのだが、自分の時間さえ空けば、二人で近くの公園に出かけて行った。

持ち物は、サッカーボールと“トイザらスで買った”グローブとバット。しかも、彼のグローブは姉のお下がりである。

それでも、彼は、(遊び道具として)サッカーボールよりも圧倒的にバットとグローブを選択するようになっていく。

最初は、キャッチボールから始める。その途中からこちらが座ってやり、ピッチャーとして投げさせてやる。

また、キャッチボールをしながら様々なバリエーションで投げ返してやり、その続きとして、ノックも取り入れていった。

はたして…、彼はみるみるうちに上達していった。

ビックリしたのが、彼の肩の強さ。

大きなフライをキャッチすることに喜びを感じていた彼は、かなりの距離を空けてのノックを好んだ。

それを、ジャストキャッチした後、そこからノーバウンドで投げ返してくるのである。

ちょっとずつ、打つ練習も取り入れた。

まずは近い距離から始めて、だんだん離れて投げてやる。

これも、かなりの確率でボールを芯でとらえるようになり、気持ちよく打球を飛ばすようになっていった。

7才程度の小さい体で、短い期間で~ここまでできるとは…。

『天才やっ!』

彼の才能を、信じて疑わなかったのである。
彼は、幼少の時から、結構運動ができた。

目立ったのは、“走り”。

徒競走は、幼稚園の時から、毎年1位。マラソン大会は、低学年の時は2位に甘んじてた時もあったが、このところは、不動の1位。

特に、彼にトレーニングを課したり、何かをやらせていたということはないので、持って生まれたものが大きいのだろう。

ただ、彼は外で遊ぶことが大好きだった。

そんな彼が小学生になって選んだスポーツは、サッカーサッカー

幼稚園へ時々来てくれてたコーチのチームへ誘われてのことだった。

そのサッカーチームは、実に“自由”だった。練習に行ってるというより、遊びに行ってるって感覚。

コーチが教えてくれることはほとんどないようで、そのチームのOBがやって来て、友達感覚で時々アドバイスしてくれる程度。

他チームとの試合もあったが、そのチーム内でのポジションも特に指示がないので、全員自由に動き回っていた。

そんな中で、彼は走れるので、一人でボールを奪い、一人で相手エリアへボールを運び、一人でシュートを決めたりしていた。

自由な雰囲気の中で、十分楽しそうだったのである。
ボルネオ伝説~なぜか“COLA”を綴ってて、ふと思い出した。

外国では、英語力が試される様々な場面があるけれど…、レストランもそのひとつだろう。

ちなみに、外国(少なくとも私が訪れた国)では、日本の如く当然のように“お冷や”は出てこない。

飲み物は、例外なく注文するものなのだ。

ただ、“water”と伝えると、ペットボトルの水が運ばれてきて、後できっちりその代金を請求される。

それがまた、ジュース等より高いっ。

イザヤ・ペンダサンっていう人が『日本人とユダヤ人』という本の中で、「日本人は安全と水はタダだと思っている、そこがユダヤ人との大きな違いだ」と書いていた(高校生の時読んだので~相当古い)けど、まさにその通りで、その当時の日本ではペットボトルの水も出回ってない時代だったので、余計に腑に落ちなかった。

とにかく、初級編として、まずはドリンクくらいは英語でスマートに注文したい。

~そう考え、マレーシアの様子が少しはわかってきた頃、同僚たちと訪れた現地レストランでドリンクを注文する機会がやってきた。

歴史に“もしも”はタブーなのだろうが(おおげさ)、その時、もしもbeerビールにしとけば何の問題もなかったのだが、私が注文しようとしたのは、“COLA”。

実は、コーラを“COLA”と言っても通じないことはすでに学習済みだった。

日本以外の国では、COLAは“COKE”と呼ぶらしい(そう言えば、永ちゃんの歌もそうやったなぁ)。

なので、その時の私は、そんなことくらいわかってるよ~と同僚にアピールするような勢いで、自信満々に“COKE,please”と店員に告げた。

“Here you are!”~その店員は、すぐさま戻ってきて、笑顔でそれを私に渡しくれた。

私も、一緒にいた同僚たちも一瞬フリーズし、まさに目が点になった。

店員が渡してくれたものは、COKEならぬ“FOLK”だったのだナイフとフォーク

一同、フリーズの後、大爆笑だったのは言うまでもない。

その後、しばらく同僚一同に囲まれて、(結構長い時間)“COKE”と“FOLK”の発音練習をさせられたことも~言うまでもない…。
一体全体、なんで俺はこんな所で苦しんでいるんだろう…。

何の因果で、4000メートルを超える場所をウロウロしているんだろう…。

なんで、人はこんな苦しい思いをしてまでこんなところまで登ろうとするんだろう…。

そういえば、自分も、教え子たちに一年を登山に例えて、「頂上をめざして頑張れ~」「苦しくてもくじけずに前進していけ」などと言ってきたなぁ。

お~い、みんな元気かぁ。

君たちに「頑張れ頑張れ」と言ってきた当人が、頂上まであと10メートルのところで事切れそうやぁ。

先生こそが、一番強さが足りんかった。

君たちは、みんな頑張れよっ。先生みたいにくじけてしまわず、でっかく生きろ~ビックリマーク

あぁ、それにしても、喉がカラカラやぁ。ここに、コーラがあれば最高やなぁ。

そうやっ、もしかして、頂上に行けば、ご褒美にコーラくらい置いてあるかもしれへんなぁ。

よ~し、人生最後にせめてグイッとコーラを飲みたいっ。

~妄想が妄想を呼び、フラフラと…立ち上がる。
すでに、両足で体を支えられない…。

膝を地面から離すことすらできなくなり、ずり這い状態となる。

自分が太平洋戦争に敗れた『敗走兵』ではないかと本気で錯覚する。

LOW'S PEAKの周囲は、こんもりと勾配がきつくなっていた。

そのふもとまで辿り着く。

大きな岩越しにその頂点を見上げる。

およそ、あと10メートル~くらいだろうか。

それが、とめどなく高い。そして、とめどなく遠い。さらに、その斜度はとめどなくキツい…。

目前の巨大な岩が、行く手を阻む。

再び、へばる。動けない。目を閉じてしまう。

朦朧とする意識の中で、様々な思いが脳裏をよぎった…。