あまり触れたくないことなんだけど…、実は、精神的にまいってしまったことがある。


それは、マレーシアから戻ってきてから。


経済や仕事よりも大切なことがあるだろうという国に住み、JSKLの自由な空気を吸ってきたばかりの私にとって、(大きく言えば)日本の文化やその職場は大変息苦しいものであった。


そう、~まぎれもなく『逆カルチャーショック』だったのである。


元々その場所にいたのだから、何とかかつてのやり方を思い出し、再びその環境に慣れていけばよかったのだが、…それができなかった。


日本的な「便利・効率優先」「少ない努力で大きな効果を」的な考え方への拒否感が大きかった。


それはそれで、自分の中でうまく折り合いをつけて少しずつ周囲に馴染んでいけばよかったのだが、マレーシアから帰ってきて、高揚していた自分がいたのだろう。


これだけは譲れんやろうということについて戦っていくしかない~と思い込み、“発言”し始めたのである。


“発言”~JSKLでは当たり前だったこのことでさえ、言葉より行間や空気を読むことが良しとされる日本文化にはそぐわない部分がある。


会議等で自分の思うことを言葉でぶつけていく私は、和を乱す生意気な存在と映っていったのであろう。


「なんやねん~あいつは…」という空気が生まれ、周囲からのプレッシャーは次第にきつくなっていった。


それが、自分の仕事にまで及んできて、自分や若い職員がやりたいことを安心してやれるようにと思って戦ってたつもりが、逆にストップがかけられたり益々やりにくくなっていったのである。


~次第にしんどくなり、追い詰められていった。


そして、ついには「死ねればラクやなぁ」と本気で思うようになっていった。完全に鬱状態だったのである。


危機感を感じた私は、まず、できるだけ体を休めるようにした。チームではなく自分の裁量でできる仕事へ変われたことも幸いであった。


そこから徐々に体も心も回復していったのだが、この経験は自らの傷でもあり…“もっとうまく戦うべし”ということを学んだ機会ともなった。


「思ってても私は言えないのですが、それを堂々と主張していく16さんのことを尊敬していますよ」~何人かの同僚がそう思い、そっと伝えてくれたことも貴重な財産となっている。

一体、『サンダカン』で何があったのか…。

(当然のことながら)教育など受けていないおサキさんは、読み書きができなかったので…、山崎朋子はおサキさんがとつとつと話す“衝撃的な”内容を丁寧に聞き取っていった。

おサキさんが海を渡った時、サンダカンには9軒の娼館があり、それぞれ一番館、二番館、三番館…と番号で呼ばれていた。

天草からおサキさんを連れてきた太郎造という奴が三番館の親方だったため、おサキさんはまず三番館で使い走りの女中として働かされた。

…が、そのままで済むはずがない。港町サンダカンには、しばしば大きな船が出入りし、その度に全ての娼館はいっぱいになっていたのだ。


渡航から2~3年たった頃、ついにおサキさんも客を取らされる。驚くべきことに、その時のおサキさん~若干13歳。許されざることをさらに付け加えるなら、その時、おサキさんはまだ月経すら未経験だったのである。

どんなに抵抗しても、「お前には借金があるから」との殺し文句で、従わざるを得なかった。

その後、太郎造の病死などによりおサキさんはいくつかの女郎屋を転々としたが、やがて、おクニさんというサンダカン八番娼館を仕切る女親方の元に身を寄せる。

もちろん、おサキさんの娼売はずっと続いていたが、おクニさんが優しい人だったことがせめてもの慰みだっただろうか...。

~サンダカンに降りたった私は、文庫本を握りしめながら、真っ先にその『 八番娼館』があった場所へと向かった。



16のブログ

「必要に迫られて」…というほとんど自分に都合のいい理由づけで…、自宅でもインターネットができるよう『光回線』を引き、何と今話題のウィンドウズ8を尻目に、安くなっていた『旧型パソコン』を新規購入。


しかも、寄せばいいのに、心機一転、携帯を今をときめく“iPhone5”に変更。


しかし、それがアダとなりました。


昨日、スマホを手に入れた初日であったということもあり、全て思い通りに使えず、…疲れまくり。一番悲しかったのが、このブログをうまく作成・投稿できないこと。親指での操作も難しくて、イライラ…。


そして、本日、新『旧型パソコン』を使おうと思ったら、何と電源が入らん…。必死で自分で何とかしようとしても~ダメ。サポートセンターに電話してみても~ダメ。


購入した電機屋さんに行き、「このメーカーに限って、こんなことはないんですけどね~」と言われ、結局新品と交換してもらったんだけど、すでに色々と作業をしてて、動かなくなったPCの中に大切な写真がたくさん入れてもとったやん…。


「メーカーによく言って、必ず写真を取り戻してね~」とO西さんに言って電機屋さんをあとにしたんだけど…、まぁ無理やろなぁ。


なんか~すごいストレスになってしまった(それが一番あかんねんけど…)。

二度目の危機は、高校生の時。

私が通ってた高校は、小高い山を切り開いたその中腹に位置していた。

毎日のように時間ギリギリで自転車登校していたので、焦りながらの最後の上り坂が~めっちゃキツい。

でも、その代わり…、帰りは楽チンなのである。

“下校下り坂楽チンコース”はいくつかあって、その日、私は住宅団地を抜ける『東コース』を選択した。

東コース周辺では、山腹を網の目状に区画整理した中に住宅が立ち並んでおり、依然その開発は山頂に向かって進んでいた。

もちろん、東コース上は十字路の連続なのだが、いつもそこを突っ切り、一気に下る。

まぁ、よく考えれば、そんなことをやってる自体が無謀の極みであったのだが…。

その日も、私はチャリンコのハンドルをコントロールしながら、そのスピード感を満喫しつつ、東コースを調子よく下っていた。

ちょうど中間点くらいの十字路を、ノンストップで突っ切ろうとした時である。

忽然と左側の視界に飛び込んできたでかい物体があった。

それは、開発途上の山頂付近を出入りしていた『大型トラック』だったのだ。

もちろん、もうブレーキなど間に合わない。

「わ~っ!!!」という悲鳴とともに十字路に突っ込んでいくしかなかったのである。

私が進入したすぐそのあとに、大型トラックが自転車の真横から突っ込んできた…。

そこまでで~一旦記憶は途絶えている。

そのあと、私の意識はその日の出来事をもう一度“反芻”していたような気がする。

その反芻の最終段階で、東コースを自転車で下っていく自分の姿があった。

そして、やはり同じ十字路で大型トラックが現れて、…「わ~っ!!!」

…この瞬間、私は我に帰った(周囲の人から言わせると“意識が戻った”)。

私は全く知らない家にいて、全く知らない人たちに囲まれていた。

事故に遭った十字路に面している家に運ばれて、寝かされていたのだ。

ほどなく救急車がやって来て、私は病院へと運ばれていった。

~で、問題の体へのダメージは…、駆け付けた警察や救急隊員も驚くほどの軽傷。自転車ごと転倒した時に負った右腕の肘付近を2針縫った程度だったのである。念のため脳波の検査もしてもらったが、…異常なし。

大型トラックの運転手が「もうダメだ」と感じながらも急ブレーキを踏んだことと、倒れた私の体がちょうど左右の前輪の中へ入り込んだことが幸いしたらしい。

まさに、“九死に一生”を得た出来事だった。
これまで、生命の危機に直面したことは何度かあった。

最初はわずか3才の時。~不思議なことに、その時の情景を今でも鮮明に覚えている。

私は、母方のおじさんが運転する車の後部座席に立っていた(当たり前だけど、その当時はそれができるくらいまだ背も小さかったのです)。他には誰も乗り合わせておらず、二人だけのドライブであった。

当時、車を所有している率もそれほど高くなく、父も自家用車を持ってなかったので、私は車に乗せてもらうことがうれしくテンションも高まっていたのだろう。

車が川の土手を走行していた時、ふと自分の右側にあった窓が気になった。確か、(今はなくなってしまったが)金具の幅だけ車の外側に開く窓だったように思う。

その金具に注意が向き、私は触り始めた。

おじさんは運転しながら、私の行動を察知し“危ない”と感じたにちがいない。

おじさんはハンドルを握ったまま、「16~」と言いながらこちらを振り返った。

と、次の瞬間~自分の体が思いもかけない衝撃を受けた。

ここまでで記憶は途切れているのだが、なんと、車が土手から川側へ転落したのである。

これは後から聞いたことであるが、その時、車は横向きに3回転して落ちていったとのこと。

次の記憶として覚えているのは、自分が粗末な病院の台の上に乗せられて泣いている場面だった。

どうやら、その病院で、おでこを5針縫われたとのこと。それが痛くて泣いていたのだ。

この事故について、これまで何度も両親や親戚から、『よかったなぁ、こんなんで済んだのは奇跡的やで~』と言われてきた。

ちなみに、運転していたおじさんも大きなケガを負わずに済んだ。しかし、自分がやってしまったことを痛切に反省し、その後私が成人するまで車を運転しなかったのです。

(その点については、なんかずっと申し訳ないような気がしてました…。)
19世紀後半~日本が、近代国家の構築に向けて邁進していた頃…その歴史の陰で多くの貧しい女性たちが屈辱と苦難の生活を強いられていた。

(これまでは男性の研究者からしか語られて来なかった)からゆきさん等の底辺女性史を、とにかく“女性”の目線から明らかにしたい!

~山崎朋子はそう思い立った。

からゆきさんの多くが九州天草の出身であることから、彼女は、まずその地に足を運ぶことから調査をスタートする。

「昔からゆきさんだった人をご存知ではないですか?」~そう尋ねて回るものの、天草の人々は(当然のことながら)そんな負の出来事を探ろうとするよそ者に対して固く口を閉ざした。

疲れ果てた彼女は、たまたま近くにあった食堂に立ち寄る。

その食堂の先客に小柄な老婆がいて、“焼飯”をススめてくれた。

その言葉遣いが天草弁に染まり切ってないことから、老婆がからゆきさんであったことを確信した彼女は、およそ人の住家だとは思えないような老婆の家までついて行く。

そして、さらに2ヶ月後~山崎朋子は意を決して…実に3週間あまりを老婆の家で寝食を伴にするのである。

その老婆こそが…おサキさん。

その年齢たかだか10才の時、わずか三百円にてボルネオ島サンダカンへ娼婦として売られていった『からゆきさん』だったのである。
みなさんは、『からゆきさん』という言葉をご存知だろうか。

確か~昔、緒形拳が主演した「女衒(ぜげん)」という映画があって、その映画が話題になった時にそのからゆきさんの説明を聞いたような聞かなかったような…。

でも、結局はその映画も観なかったし、私はからゆきさんのことをほとんど知らなかったのである。

今回の東マレーシアの旅へ出発する数日前、私は、伊勢丹KLの中にある紀伊國屋書店である一冊の文庫本を購入し、読み始めた。

はたして、そのページをめくり始めると、その作家が明らかにしていった驚愕の事実が次々と綴られていたのだ。

~そして、私は瞬時にして自分の無知を恥じた。

この事実を知らずして、アジアを訪れてはいけない。

この事実を知らずして、マレーシアに住んだりしてはいけない。

ましてや…、この事実を知らずしてボルネオ島サンダカンの地を踏んではいけない。

…その文庫本こそが、

~山崎朋子著“サンダカン八番娼館”。

その日の夜~HYAT HOTEL Kota Kinabaruのベッドの上で、私は苦しみに苦しんだ。

足の筋肉痛がハンパなく…筆舌に尽くしがたい痛みにのたうちまわったのである。

翌朝~足を引きずりながらコタキナバル空港へ。

次の目的地『サンダカン』へ向かう飛行機の窓から…、キナバル山が手に取るようにくっきりと見えた。

周囲の山々から一際抜きん出ているその威風堂々とした姿に、改めて圧倒されると共に…、こんなすごい山の頂上に立ったんだ!という大きな達成感と感慨が再び込み上げてくる。

自分の人生、まだまだ半ば。

これまでは、大した苦労もなく、ひたすら周囲のサポートを受けながら甘えた生き方をしてきた。

しかし、これからはきっと違う。

より大きな責任を担っていくことになるであろうこの先の人生~様々なとてつもない苦難も待ち受けているだろう。

悩んだり悲しんだりへこんだり~時には全てを投げ出したいと思うことがあるかもしれない…。

でも、キナバルよ。

そんな時は、あなたと共に苦しみ、あなたと共にその苦しみを乗り越え、そして、あなたと共にその感動を分かち合った日々のことを思い出そう。

あなたと過ごせたこの経験は、間違いなく私の心に深く刻まれ、大切な大切なパワーの源となってくれることだろう。

~尾翼の後方へと流れいくキナバル山の姿に向かい、私はもう一度心からの感謝を伝えた。

ありがとう、そしてさらば~偉大なる山!



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昔々、中国南宋にリクユウという詩人がいたそうだ。

長い間病床に伏していたそのリクユウが、ある時突然起き上がり、すごい勢いで筆を走らせた…という逸話から、晴天が続いていると思いきや突然嵐となる~という意味の『青天の霹靂(へきれき)』という言葉が生まれたとか…。

ここわずか一ヶ月ほどの間に起こった出来事は、まさに私(そして私の周囲)の運命を揺るがす、まさかまさかの大嵐…

~『青天の霹靂』でありました…。
午前7:00~3千メートル以上の地で繰り広げられた怒涛の出来事と記憶を残しつつ…、ラバン・ラタの山小屋をあとにした。

ふもとのpower stationにたどり着くまで…4時間。

ホントよくこんな道を登ったなぁ~信じられないことをしたなぁ~もう一度登れと言われても絶対無理やなぁ~そのところどころで、上りの苦しさが蘇る。

power stationで、運よく登山事務所までの車に乗せてもらえた。

事務所では、(まさに)事務的に一枚の紙を渡される。

なんだろうと目を凝らすと、それは、なんと4101メートル地点『登頂証明書』。

4101メートルを超える山ってあるんだろうか~(その時の私にはエベレストを頂点とするヒマラヤ山脈しか浮かばなかった…)。

おそらく、これから先、自分が生きている内に、今回以上の高さにある地を踏むことはないだろう。

そう思うと、今手にしている一枚の紙切れが、とてつもない“a piece of Priceless”に思えたのである。