ふいに、タクシーが止まった。


どうやら、この辺りで「ランチを食べよう」ということらしい。


そう言えば、さきほどからの興奮状態により、食欲もどこかへ吹き飛んでいた。


ドライバーの先導により、そばにあった薄暗い倉庫の様な食堂へ入る。


メニューを見てもほとんどよくわからなかったが、何とか拾い読みをして『チキンスープ』『チキンカレー』『チャパティ&ナン』『(何とか)ベジタブル』、そしてドリンクに『ティー』を注文。


やはり、このメニューにも、“ベジタリアン”用の欄が設けてあった。インドのレストランや食堂では、必ずこのベジタリアンメニューが掲載されている。


インドでは、ヒンズー教の人々が“神の使い”である牛の肉を食べないことは有名であるが、実はかなりの人たちが肉自体を食べなかったり酒類も飲まない。


インドにおける禁酒とベジタリアンの風習は、もともとバラモン階層(カースト制における最上階層)の優越性を示すものであったとのこと。


その風習を、下階層の人々も真似をし始めたことから広まったらしい。


「酒を飲んだり動物を殺して肉を食べたりする野蛮な行為をする人たちよりも、自分たちは優れているんだ」という自らのアイデンティティーを示すもののようである。


ゆえに、イギリス統治下のインドで、いくら彼らにキリスト教を布教しても広まらなかった。宣教師たちが酒を飲み、肉を食べたから…。


実は、私がマレーシアで実感しているイスラム教を信じる人々の思いにも通じるものがあった。


彼らにも様々な日常の規律があり、1日に5回もアラーにお祈りを捧げたりしている。


そのことによる不便さを問う私に、彼らは「大変ですよ」と言いながらも、むしろそのことを堂々と語ってくるのである。


『自分たちは、そんな大変なことでも毎日きちんとやれているんだよ』『それだけ確実に信じるものがあって生きているんだ』…そんな気持ちが透けて見えた。


一見、不合理に思える生活様式ではあるが、それゆえに彼らは大きな誇りを持って生きていることが伝わってきたのである。


もしかしたら、その点が私たちにはわかりにくいことであり、アジアに生きる人々の生き方や宗教を理解していく大きな糸口であるのかもしれない。


…もちろん、その“倉庫”食堂で食したチキンカレーは、バリバリのNon-VEGETARIAN FOODで、日本のカレーとはおよそかけ離れた~香辛料満載のものだった。


めっちゃ辛かったけど~意外とおいしかったのです。



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Saya orang Jepun(サヤ オラン ジュプン).


~マレーシアで新しく出会う人に、このフレーズは必須なのです。


Sayaは「私」、Jepunは「日本」、そして、orangは『人』。


Saya orang Jepunとは、“わたしは日本人です”という意味のマレー語なのだ。


さて、唐突ですが…


『オランウータン』は、マレー語である。


「オラン(Orang)」は人、「ウータン(Utan)」は森という意味で、『森の人』という意味。


このボルネオのジャングルの中で、この動物に出会った人が、本当にヒトと間違えてた名付けたという語源逸話が残っているらしい。


~サンダカンを後した私はタクシーを使い、そのボルネオのジャングルへと向かった。


約20キロほど山道を走り、“Sepilok Orang Utan Sanctuary”という施設に到着。


そこに足を踏み入れると、辺り一帯の森の中から、たくさんの『森の人』が顔をのぞかせた。


小さな愛らしい子どものオランウータン、結構でかくておっさんじみたオランウータン…などなど。


その“一人一人”の表情が実に豊かで…、確かに『ヒト』と間違ってしまうのも無理はないかも~と思う。


限りなく自然のままの環境にしてあるため、まったく檻や柵などはなく、人間を怖がるのかと思いきや…、彼らの方からどんどん近寄ってくる。


かなり、人間に慣れている~のである。


実は、このセピロックは、オランウータンの保護区となっていて、母親を亡くしたり親と生き別れになって自分だけでは生きていけない子どものオランウータンを引き取り、自立のためのトレーニングを行っているのだ。


彼らの様子を観察したり、触れ合ったりしていると…そのしぐさや表情に笑ってしまうことも多く、実になごやかな気持ちになれた。


でも、そもそもなぜこんな施設が必要なのか。


その理由としては、オランウータンの数がどんどん減っているからとのこと。少しでも保護していかないと、もしかしたら絶滅しかねないというのだ。


それはどうしてか?


根本となる背景は、~まぎれもなく彼らの生活の場である“熱帯雨林の無尽蔵な伐採”が続けられてきたことである。


なごんでいる場合ではないのだ~あぁ、またしてもJepun…。



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11:40AM~結局タクシーにてニューデリーを出発。


折しも雨が降り出した。


道路がきれいに舗装されていたのは、ニューデリー市内のみで、市街地を抜けると舗装はされているものの、一気に道はガタガタになっていく。


そしてそして、ここからは、まさに『空前絶後』『未知との遭遇』『アンビリーバボー』…、ニュージーランド南島での爽快なそれとは最もかけ離れた超超ちょ~う対極にあるドライブを体験することになる。


なんだろう…、なかなか言葉では表せないが、何とか努力して短く言ってみれば…


「道路は~まさに動物園」「道路は~まさに無法地帯」「道路は~まさににごりきって洗う気力もなくなったパレット状態」というところだろうか…。


では、タクシーの車窓から目撃した数々のシーンをご紹介いたしましょう!もちろん、これをお読みのみなさんは、心置きなくつっこんでください…。


やっぱ屋根に人が乗っとるバスは多いなぁ。おいおいあのバスには、後ろのバンパーの上に足を置いてしがみつきながら人が乗っとるぞ!!!おっと、ロータリー(イギリス式交差点)の中側におっちゃんがおる。そんな危ないとこで何がしたいねん。あっ、そこに“屋根乗せバス”が来た。おいおいおい、おっちゃんがバスに合わせて走り出した。ホンマ何がしたいねん。ゲゲゲゲ…おっちゃん、走りながら開いてるバスのドアから飛び乗ったぁ~~~そんな乗車方法、許されるの???


え~っ、こらこらこら、そこの自転車に乗っているお兄さん。自転車は自分でこぐもんやで~。なに、荷台につかまって“トラック”に引っ張ってもらっとんねん。半端ないスピード出ているよ。危なくて見とられへんやん…。ここは、なんでもOKですか???インドの安全教育とかどうなっとん???


ほらほらほら…、なんか渋滞してると思ったら、トラックが横転しとうやん…、だから言わんこっちゃないんやって。それにしても、横転したトラックの運転手は途方に暮れているけど、パトカーも救急車も一切見当たらず…誰も来てないで~。道路もそこが塞がれたまま…ほったらかしか~い!


雨が強くなってきたなぁ、おっ、歩道橋が見えてきた。どんなに車が走って来ようとも平気で道路を横切ったりバスに飛び乗ったりするインドの人たちなのに、歩道橋を通る人がおるんかなぁ。あれっ?なんかでかいものが歩道橋の下におる“ぞう”。まさか…なぁ。近づいてきたので、はっきりと見えた。な、な、な、なんじゃ~ホンマに『象』やないか~い。背中に人が乗っとう“ぞう”。象が歩道橋の下で雨宿り…あ、あ、あ、ありえへん…。


お~っと危ない、今この車…横の車にぶつかりそうになって急によけたぞ。ドライバーの兄ちゃん気をつけてよ~。どんな車にぶつかりよったんかなぁ~。あれ~~~っ、車じゃないやん…あ、あ、あ、あれは、まぎれもなく『牛』やぁ!!!おいおい牛くん、道路の真ん中をゆったりと歩いてる場合やないよ。でも、どの車も全然気にせずに、ちゃんと牛をよけているなぁ~そうかぁ、ここでは牛は“神の使い”なので、道路でも最優先なんやね~って納得するのもおかしいやろ!!!


なんか前方を走っているトラックの影が大きくなってくる。これはおかしいなぁ、ゲゲゲゲっ~あのトラック、同じ方向ではなく、こちらに向かって逆走してくるやないかぁ。いやいやいや、インドは日本と同じく車は左側通行ですよ。ここは、道路交通法ってないの?ちゃんと中央分離帯もあって仕切ってあるやん…なんで、そこを乗り越えてこちらに向かってる???わ~っ突っ込んできた…と、タクシードライバーさん~当たり前のようによけて涼しい顔。これが当たり前なんか???それがこわいやろ!!!


左右の通行の分離も守られていない状況なので、同じ向きの車線の中でも、~大変やぁ。ちょっとでも隙間があれば、どんなに狭い幅でもそこに車体を突っ込んでいく。どうみても1車線の道路が3~4車線になってしまっとうぞ~そもそも、車線ラインも中央線もほとんど引かれてないやん…こんなんでええのんかぁ???


とにかく、道路はやかまし過ぎ~っ。どの車もやたらとクラクションを鳴らす。特にやっかいなのは、オートリクシャー。なんの意味もなく、いちいちクラクション。いい加減にしてくれよ~とふと目の前のオートリクシャの背中を見ると、そこにはなんと“HORN PLEASE”の文字が…。ひょっとして、みなさん「やかましい」とは夢にも思わず、むしろ推奨してはんのや~~~。あ~っ、理解不能…。


それにしても、さっきからどんだけ動物が登場するねん。一番いい場所で一番でかい顔をしておるのが~『牛』、その他にも、『馬』『ヤギ』『ロバ』『ぶた』『ニワトリ』『犬』…、こんなものまでとびっくりしたのが『ラクダ』、そして極めつけはやっぱり『象』!!!ホンマ、(繰り返しますが)道路は動物園かぁ~~~。


~などなど…、次々とわけのわからなシーンの連続で、ほんと“アトラクション”を体験させられているような時間だったのです(一緒にたくさんのつっこみをしていただき~ありがとうございました)。


しかし、ここは劇場でもなく~サーカスでもなく~サファリパークでもなく~USJでもなく~ディズニーシーでもなく…、目にしていることは、全て現実に起こっていることで…。


いつ、自分もどんなことに巻き込まれるかという恐怖におののきながら、身を固くし緊張しぱなっしでした。


あぁ~疲れた…。



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ホテルに帰ると、TOP TRAVELの救世主~グプタさんが待っていてくれた。


Premirという名前のインド製箱型セダンに乗せてもらい、共にインディアン航空のオフィスへ。


その道すがら、すれ違ったバスに驚いた。


普通の路線バスだと思われるのだが、~なんとバスの屋根の上にまで乗客が乗っている…。

ゲゲっ、おいおい、君たち危ないやろ~なんでそんな当たり前のような顔をして屋根に乗っとんねん。


~それから、そんな風景を当たり前のように流している周りの君たちもや~この状況を誰も注意せんのかぁ。


しかし、この時の私はまだまだわかっていなかったのである。インドが、次々とボケをかましてくる『つっこみどころ』満載の国であることを…!


インディアン航空の女性従業員は、全員サリーを着ていた。グプタさんによると、働く女性はサリーを着なければいけない~とのこと。


日本でいえば、女性は和服で仕事をしなさいと言われているようなものだろうか…(女性とすれば不満もあるだろうが)そこはつっこまず、まぁヨシとしよか。


「この計画はおかしいよ~」と、昨夜流暢な日本語で指摘した彼は、あまりにも甘かった今回の旅の手段確保のため、必要な航空券を一緒にゲットしてくれた。


聞いてみると、案の定、グプタさんは日本に一年間行っていたということ。基本的に和歌山県にいたのだが、『東京大学』でも勉強したということだった(それは、東京『の』大学やろ~?と、ここもあえてつっこまなかったが…)。


グプタさんは、万全を期して、次の目的地までのタクシーまでチャーターしてくれた。


そのグプタさんとお別れして、~いざ奇跡の都市“AGRA”へ!



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ウツウツとした気持ちで、日本人墓地を後にし…、元来た道を歩き出す。


サンダカンの人々のお墓は、この一帯に集中しているのだろうか。~とにかく、広い。


ふと見上げると、さっきは気付かなかったが、小高い丘の上のひときわでっかい墓標が目に付いた。


その墓標に刻まれている文字を読んで、愕然とする。


『壹九四五年五月廿七殉難華僑紀念碑』


やはり…、ここにもあった。


マレーシアに来た時、この『華僑殉難紀念碑』などというものが、やたらとあちらこちらにあることに気付き始めたていたのである。


最初は何のことかわからなかったが、…ほどなく、その意味を知って衝撃を受ける。それこそ、我々日本人が知らなくてはならないことだったのだ。


時は、まさに1945年頃~第二次世界大戦中に遡る。


大戦中、サンダカンも日本軍に占領された。町は徹底的に破壊され、この地に多く住んでいた中国系の人たち(華人)は、なんと日本軍によって大量に虐殺されてしまったのだ。


その時に亡くなった人たちを祀っているのが、この『壹九四五年五月廿七殉難華僑紀念碑』であった。


体も心もさらに重たくなりながら、その歩みを進める…


サンダカンの港がはっきりと望める場所に出た。


そこでも、私は異様な光景を目にする。


海に中に、大量に浮かべられていたものがあった。それは、熱帯雨林の原木。


沖の方には、それらの原木を運ぶためのタンカーがいくつも待機していた。


そう、サンダカンの港はボルネオのシャングルで伐採された木材を積み出していく、一大積出港なのだ。


はたして、そのタンカーはどこに向かうのか。~そのほとんどが、まぎれもなく“TO JAPAN”だったのである。


急に、サンダカンの人々の目が気になり始めた。


そう言えば、『婆羅洲薬房』に足を踏み入れた時、中国系の店員たちが怪訝そうに目を向けてきたよなぁ。


ほんの少し前、許し難い暴挙を行った国が、今度は札束に物を言わせて貴重な天然資源を大量に切り取り、わが場所に持ち帰って繁栄のために消費しまくっている。


そんな国からのんびりとやってきた日本人丸出しの自分のことを、サンダカンの人たちはどう見ているのだろう…。


~私は、もはやいたたまれなくなり、足早にサンダカンを後にした…。



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「今ではもう、知っとる者は何人もおらんじゃろうが、おクニさんはな、サンダカンで死んだ日本人を弔うために、日本人墓地をつくらしたと。あれは、ほかの誰もでけん、おクニさんの大手柄じゃと今でもうちは思うとる…。」


~文庫本の中で、おサキさんが山崎朋子にこう語る場面が綴られている。


八番娼館の女主人~木下クニは、現地で亡くなっていったからゆきさんたちのため、サンダカン郊外に日本人墓地を建立したというのだ。


私なんぞが…とも思うが、ぜひその場所で祈りを捧げたいと願い、その日本人墓地へと向かう。


この地図は「地球の歩き方」に載っているのだが、いかんせん大雑把すぎて…、場所がわからない。


しかも、その迷っている道すがら出会う人たちは、マレー語しか話せないではないか。さらに、キナバル山後遺症で…足がジンジンと痛む。


それでも、片言のマレー語を駆使して道を尋ね、その場所に近づいていった。


そして…、広大な中国人墓地を左手に見ながら小道をさらに奥に進み、右手の丘を登ったところに、小ぢんまりとした日本人墓地がその姿を現した。


周辺には草木が茂り、それがなければ見通せたであろうサンダカンの海は遮られてしまっている。


そこには、15基ほどの立派な墓石が立ち並んでいた。


「サンダカン八番娼館」の続著である「サンダカンの墓」によれば、日本人墓地の中で今日まで姿を残しているある墓はほんの一部で、多くの墓は墓石がなかったため、墓標は朽ち果ててしまっているとのこと。


私は、そのひとつひとつにお参りをさせてもらった。


と、ある墓石に目が留まる。


『熊本縣天草郡二江村~木下クニ建立』

~そこには、確かにそう刻まれていた。


やはり…、おクニさんの伝説は本物であり、おサキさんが山崎朋子に語ったことは真実であった。~そのことを改めて感じる。


この日本人墓地全体は、よく整備され清掃も行き届いていた。


実は、この墓地はこれまでずっと藪の中に埋もれていたのだが、「サンダカン八番娼館」の出版でその存在が明らかになったことにより、発見されたというドラマがある。


その後も、現地の日本人会によって手入れがなされ、守られ続けているのだ。


もうひとつ、特筆すべきこと。


全ての墓石は、日本がある方角とは真逆の方を向いている~という事実だ。


強い望郷の念を抱いていたはずの彼女たちの墓が、なぜ日本に背を向けているのか。


山崎朋子は、祖国から捨てられたも同然の彼女たちの“日本を拒絶する気持ち”の表れではないかと分析している。


しかし、それは逆に祖国日本を強く強く想う気持ちの裏返しであったのではないだろうか…。


私ごときがその無念さを推し量ることさえおこがましく、今に生きる自分が再びこのようなことを起こさない責任を担っていることも感じつつ…、ただただ今は安らかに休んでくださいと念じるしかなかった。



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実は、今、仕事を休んでいる。


それは、思いがけない病気で、自分の生命がかなり厳しい局面を迎えているから。


やや腹痛は感じるが、当面は元気なので、仕事をやろうと思えばできるのだが、ここは時間を作ることにした。


それは、自分の命と向き合い、その命をできるだけ伸ばす方法を考えることと、今後の命をどう生きるかを考えるため。


しかし、まだとまどいが大きく…、どちらの命題に対しても答えが出ていない。


今、(難しいながらも)とりあえず心がけていることは、“運命を恨まないようにしよう”ということ。


人は、それぞれ『役割』を与えられて生まれてきているのだろう。


その役割がある限り生かされ、その役割を果たせたら、生は終了する。それは、神のみぞ知るところである。


今、この状況に立たされたことについても、その意味はあるはずだ。


まだはっきりとは見えてはこないが、こういうめったに経験できない条件の中で、自分が何をどう考えどう行動したかということを残し、伝えたい。


それが、何らか人にとってプラスに作用するものであってくれれば、~それだけでも意味はあるのではないか。


だが、今のところ頭に浮かんでくるのは、(残念ながら)愚痴やマイナス思考の山…。


~もう少し、修業が必要である。


朝食後、少し時間があったので、周辺を散策してみることにした。


ホテルの入り口には、頭にターバンを巻き立派な髭をたくわえた屈強そうなドアマンがで~んと構えていて目を光らせている。


ドアを一歩外に出ると、それまでのホテルの快適なエアコンの感覚が一変し、生温かな空気が体を包み込んだ。


すぐさま、オートリクシャーのおっちゃんが近寄ってきて、「観光に行くなら乗っていけ」~としつこく誘ってくる。


行ってみたいところへはとても歩けないこともわかっていたので、結局、値段交渉をした上でオートリクシャーへ初搭乗。


予想通り、後部座席は狭い。窓がないので、風が容赦なく顔面にあたってくる。その上走り始めると、エンジン音がやかましい…。


それでも、楽々ニューデリーの市街地へと滑り出していった。


すぐに感じたのは、道路が異様に広すぎるということ。交通量もそれほど多くないので、なんか間延びしているというか…、かえって不便というか…、活気がないというか…。


まぁ、賑やかなのはオールドデリーの方で、こちらはニューデリーなわけで~そういう役割でいいのかもしれない。


ほどなく、ホテルから忽然とそびえ立ってるのが見えた~『インド門』の真下に到着。


上を見上げると、改めてその巨大さに圧倒される。


その最上の大理石には“INDIA”と刻印され、それを支える柱には、おびただしい数の名前が彫ってあるのが見えた。


この名前の人たちこそが、第一次世界大戦で、インドの独立を望むがゆえにイギリスに協力して死んでいった若者たちなのである。


しかし、結局イギリスはインドの独立を認めず、彼らはイギリスに裏切られ利用されただけに終わってしまった。


それを考えると、最上の代理石に刻まれた“INDIA”は多分に空々しい。この門は、ほかでもなくイギリスによって建立されたものだからだ。


“INDIA”の文字の裏に、“GREAT BRITAIN”の文字が透けて見えた。


インド門下の道端に、籠を前に置き笛を吹いているいおじさんがいた。


何だろうと注視していると、次の瞬間~ビックリ仰天。その籠の中からなんと…コブラが姿を現した。おじさんは、観光客相手の“へびつかい”だったのだ。


これにはインドを感じて、シリアスになっていた心が少しなごんだ。


インド門の他にも、近くに居並ぶ建築物を見て回る。


大統領官邸前の道路は、軍隊によって封鎖されていた。ラジブ・ガンジー首相が暗殺されたばかりということで、かなりの警戒態勢が敷かれているとのこと。


どれも、政治の中心地にふさわしい重厚な建物ばかりだった。


しかし、実は、これらの建物も全てイギリスによって建てられたイギリス帝国の権威を誇示するためのものだったのである。


イギリスの植民地であったインドの歴史は、その富と労働力を搾取され続け…、イギリスからその独立を勝ち取るまでの苦難の道のりであった。


そのこと胸に刻んだ上でインドを旅しなければならない~そう強く思った。



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目が覚める。


一瞬、ここはどこなんだと思う。そして、まぎれもなく“インド”であることを認識。


Merdien Hotelの窓から、夜明けのニューデリーの街が見渡せた。


この都市がかなり計画的に作られたことが、一目瞭然である。


整然と伸びる道路上を、“オートリクシャー”なるものが、実にせわしなくうなり声をあげて走っていた。オートリクシャーとは、小型オート三輪のうしろを2人掛けの座席にしたスクータータクシー。


自転車で行き来する人たちも多い。


と、次の瞬間には、日本やマレーシアではありえない物が道路上を進んでkきているのが見えた。~“馬車”だ。


正面の濃い緑の木の隙間から、古い建物が顔をのぞかせていた。公園都市と言われるKLよりも、さらに緑が多い。


左手には高層ビルが立ち並ぶ。


そして、右手に見える森の中に、ひときわ目立つ門が建っていた。~『インド門』である。


42メートルにも及ぶこの石造りのゲートは、第一次世界大戦でイギリスに協力して戦死したインド人兵士の慰霊碑。1万人余りの将兵の名前が刻まれているそうだ。ちなみに、インド独立を信じて英国のために戦い死んでいった彼らの切実な想いは、戦後、見事に裏切られることになる。


時間の経過とともに、徐々に全容を見せつつあるニューデリーの町は、およそ“インド”と聞いて思い浮かべるイメージとはほど遠い~大都会であった。



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『八番娼館』は、現在、薬局として使われているとのこと。


さすがにその場所は、(もはや旅の必携書となっている)「地球の歩き方」にも掲載されていない。


全く見当がつかなかったので、イチかバチかタクシーを拾って、運転手に聞いてみることにした。


“婆羅洲薬房”の名前を示すと、そのタクシードライバーは、すぐわかったようだ。一目散に空港から15キロ離れているというサンダカンの町まで車を飛ばしていく。


ジャングルを抜け、町が姿を現した。コタキナバルに比べるとやや小ぶりな感じがしたが、結構インフラは整っている。


~ほどなくして、タクシーはその薬局のすぐそばへ横付けされた。


その薬局が入っている建物は、三番街と呼ばれる通りに面していて、(おそらく当時とは全く違ってしまっているような)実に立派な5階建てである。


薬局に足を踏み入れてみる。中国系の店員たちが、怪訝そうに視線を向けてきた。あの時のおサキさんも、日本から遠く離れたこの場所で、同じように出入りをしていたのだろう。


おサキさんの影を求めて~ふと、薬局の中から出入り口を振り返ってみた。まさに今、自分は、数十年前のおサキさんと同じ場所に立っていることを実感する。


薬局の横に2階へ通じる階段があった。


痛い足を引きずりながら、上へあがってみる。すると、2階は食堂になっていた。その薄暗いフロアの向こうから、今度は食堂の店員たちが珍しげに近づいてきた。


ベランダから外を見下ろしてみる。三番街の激しい往来が視界に入った。


おサキさんが“商売”をさせられていた部屋は、ちょうどこの場所にあったのだろうか。もちろん、その当時の景色とは全く違っていたのであろうが、きっとおサキさんもこの場所から階下の風景を眺めていたにちがいない。


その視線の向こうにあったのは、自分を求めてやってくる客だったのか。それとも、遥かに遠い天草の風景だっただろうか。


痛切に胸が痛んだ…。



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