日本軍は、午前3時に私の村へやってきました。

村長だった父は~そんな日本軍のために食べ物を準備したのです。

日本軍は、ICカードをチェックしながら「逃げるな」と怒鳴っていました。

次の日…午前10時30分頃、村人全員が別の場所に連れていかれ~グループに分けられ、順に並ぶように命令されました。

次に~そのグループごとに、上半身裸になって這いつくばるよう言われ…一人ずつ背中から銃剣で突かれて殺されていったのです。

順番を待つ時間は、言葉にならないほど怖かった。

中には、7才の子もいました。

私の父とおじさんは~最後に殺されました。

私も~銃剣で5回刺されましたが、幸い急所を外れたようで、死ぬことだけは免れたのです。


でも、5回のうち銃剣が3回体を貫通し、その勢いで指が切れました。

日本軍の中にはたくさんの台湾人がいて、「死んだふりをしておけ!」と言ってくれました。


そのまま二晩ほど経って~自分がまだ死んでないことに気づきました。


夜になるのを待って、山の中に逃げ込みました。

~同じ村の中で生き残ったのは、私ともう一人だけです。

二人以外は、みんな殺されてしまったのです。

男も女も…大人であろうが子どもであろうが~全員です。

赤ん坊も、放り投げて~銃剣で突き刺していました。

妊婦であっても、容赦なしです。

日本軍が、路上でレイプしているところも見ました。

私の姉の夫は…“Slow killing”と言って~刑務所の中で、無理矢理大量の水を飲ませ、指を一本一本潰しながら殺されました。

そんなことが、何と終戦の日を迎えても~まだ3ヶ月間もの間続けられていたのです。

今思い返しても…悲しいし、憎い。

あなた方も~もし私たちの立場だったら、同じでしょう。

でも、今日はよく話を聞きに来てくれました~ありがとう!



※ ただただ茫然とヤンさんの言葉を聞くしかなかった私たちに~彼は、自らシャツを脱いで銃剣の跡や指のない手を見せてくれました...








その日は、確か1942年3月18日のことでした。

私が庭で掃除をしていたら~突然、たくさんの日本軍がやって来たのです。

彼らは、非常に興奮しているようでした。

私は、咄嗟に近くのバナナのプランテーションの中へ逃げ込みました。

日本軍は学校に陣取り~村人たちを集めて「逃げると殺す」と言いながら、“ICカード”をチェックし始めたと聞いたのです。

やがて、バナナプランテーションに台湾人だと思われる兵士がやって来て~「怖がらずに出て来い」と呼びかけていきました。

私は、日本軍がニワトリを殺すところを見て~やはり怖くなりました。

でも…何よりもレイプされたり売られていくことが一番怖かった。

その時、私は14才だったのです。

家はことごとく焼かれ、何と男の人は~20人ずつ順に殺されていきました。

私は、バナナプランテーションの中で…朝がくるのを待っていました。

夜が明けると~辺りの様子が見えてきたのですが、たくさんの死体があったりまだ生きていても大きな傷を負っている人がいました。

でも、みんな逃げてしまっていたので~手当てをする人はいません。

日本軍は、まだ焼け残っている家を一軒ずつ回って~焼き尽くしていきました…









わけがわからない時期が一段階し、マレーシアでの生活に何とか少し慣れてきて~やっと手に入れた“プロトンサガ”で、あちらこちらをドライブできるようになってきた頃…妙なことに気付き始めた。

KLはおろか~マレーシアの至るところに、同じような石碑がある。

それが、どうも気になる。

その原因は…石碑に刻まれている文字にあった。

『華僑大虐殺記念碑』

なんなんや~これは…

それが、きっかけであった。

その謎を探るために~JSKLの有志でその調査を始めた。

以下は、その調査で明らかになった…驚愕の記録である!
そのイメージとはウラハラに~ヨーロッパを個人旅行をする場合、以外とアジアよりハードルが高いかもしれない。

その理由は…言語!

『英語』が通じないことが多いのだ。

その日は、スイスのツェルマットから~まずはローカル線を使い、主要駅まで乗り継いで…何としても“TGV”に乗り込まなければならない。

今考えると~よくそんなことができたなと思う。

チケットを買う窓口のおばさんたちが使うのは、ドイツ語だったりイタリア語だったりベルギー語だったり…

時間を気にしながら、自分の後ろの長い列に気を遣いながら~もう必死だった。

それでも、何とか無事チケットを手に入れ~車窓からヨーロッパの景色を楽しみながら、ついに憧れの『パリ駅』へ到着。

そのパリ駅で~またまた“試練”が待ち受けていた。

全世界の様々な国から観光客が押し寄せている…あの“パリ”である。

その中心であるパリ駅なら、当然「ツーリストインフォメーション」くらいあって~簡単に宿くらい見つかるだろう…そう信じて疑わなかった。

それが~どうもそのℹ️が見当たらない。

やはり、その日泊まる場所が決まってなければ落ち着かないので~何とかせねばならない。

よし…こうなったら、直接宿に電話しよう!

伝家の宝刀~『地球の歩き方』のページをめくってみる。

~結構エエ感じのとこが…たくさん掲載されているではないか!

でも、ここからまた苦難が始まる。

やっと公衆電話を見つけたが、小銭の持ち合わせがない。

すぐ傍の駅売店で、何とかテレフォンカードを購入。

やっとのことで~良さげな宿に電話をしてみるが、甘かった…

数件かけてみるも、どの宿の応対者も~ただただ“フランス語”しか喋ってくれない。

英語ができる者はいないのか~と聞いてみても、ひたすらフランス語…電話だということもあって、わけがわからない。

どんどん時間だけが過ぎていき、途方に暮れかけた…

と、その時我らがバイブル“地球の歩き方”に~その文字を発見した。

「ここの宿は英語が通じますよ!」

まさに、その時の私にとっては~天の声であった。

実は、フランス人が英語ができないということはない。

彼らのイギリスに対する複雑な対抗心と、プライドの高さ等があって~例え英語がわかったとしても、使おうとしないらしい。

ともかく~やっとその日の宿泊場所を確保できた私は…いよいよ花の都へと踏み出していった!



その日~私は、「横浜港未来駅」へ降り立った。

『日本LD学会』へ出席するためである。

この学会へ参加するにあたり…私は大きな逡巡があった。

果たして~“命”が区切られている今の自分が、このような学会に参加していいのだろうか…

かなり悩み、自らの心に問いかけもしたが~最終的には…自分の中からまさに『真実の声』が、聞こえてきた。

「子どもたちのために~心を傾けたい…」

「その子どもたちのために~必要な力を身に付けていきたい…」

そんな強い想い一心であった!

そして~いよいよその“フォーラム”が、スタート。


私が選んだテーマは~学校や地域全体で子どもをサポートしている実践発表に部会だった。


今や、先進的な地域では個別の支援に加えて“クリニックからクラスルームへ”~さらに“クラスルームから地域社会へ”を合言葉に...どんどん支援の輪が広がりつつある。

さて、部会では~地元の学校や遠く神奈川での取り組み…そして、京都での実践等~素晴らしい発表が続く。

私は、そのひとつひとつに耳を傾け~メモを取っていった。

中でも…京都の取り組みは群を抜いていた。

府の支援センターを中心に、地域全体と一人一人の子どもの成長を見据えた支援体制が~整えられていた。

私は…大きな収穫と感動を胸に、フォーラムが行われた場所を後にした。

その帰りに~「ポスター発表」の場所に立ち寄ってみる。

そこでは…何と我がK市が誇るべき“通級担当”による~これまた素晴らしい発表を目にすることができた。

その発表者たちと~記念の写真を撮る。

さぁ、今日はこのくらいで…と会場を後にしようとした時~思いがけない人と出会う。

私が尊敬してやまない師匠の一人~Y先生である。

その先生と…ロビーでしばしのお茶タイムを持つ。

様々な思い出話をする中で~思いがけないオファーをいただいた!

「先進地の支援体制について…本をまとめようと思っているんだけど、K市の部分を16さんがまとめてくれませんか?」~という申し出だったのだ。

私は~少し戸惑ったが…Y先生の熱意とその前向きさに感銘を受けて、一応引き受けさせていただくことにした。

もちろん、私の病状についても伝え~それを踏まえてでもお願いしたい…とのことだったので~益々私の“モチベーション”は高まっていく。

そして…次年度会場となる大阪での再会を誓い合い、Y先生との別れを惜しみつつ~会場を後にした。

夜の港町は美しい…。

夜風が~心地よく私の頬を撫でていった。

私は~「子どもたちのためにも、そして先生方のためにも…生きて、何とかオファーいただいた“支援のための原稿”を書き上げたい」

…そう固く誓って、『YOKOHAMA』の光の中へ~そっと、フェードアウトしていった!

初めて~そのジャングルの中の家を見た地点から、さらに3つ目くらいの場所が…我がチームの目指す地点であった。

その村の船着き場には、たくさんの子どもたちが~真っ裸になって…水浴びをしていた。

よそ者の我がチームに~“とても素敵な笑顔”を投げかけてくれる。

マレー語が通じるかどうか…試してみた。

「アパ カバー?」

すると~ちっちゃな少女が、恥ずかしそうに…

「カバ バイ!」と答えてくれた。


どうやら...イバン族もマレー語を使うようだ。


目の前には~やはり大きな“ロングハウス”。


その外壁は竹を中心とした木材が使われ、屋根は粗末なトタン板のようだ。


そのロングハウスに~恐る恐る足を踏み入れる。


中から結構たくさんの女の人と子どもが顔を覗かせ、こちらをジロジロと観察している。


聞いてみると~男たちは、『狩り』に出かけている...とのこと。


うん?~『狩り』?...もしかして???~と不安が頭をよぎるが、ここはスルーした。


女たちに混じって、一人初老の男性が姿を現した。


やや頭は禿げあがっていて、何よりも際立っていたのは~全身に描かれた“刺青”。


そう、この初老の男性こそが...このロングハウスを束ねる『酋長』だったのだ。


さっそく我々は、途中の町で購入してきた“おみやげ”を手渡す。


ここで、初めて何だか酋長の様子がおかしいことに気付く。


何かをマレー語でしゃべっているようなのだが~はっきりと聞き取れない。


その謎が、彼が手にしている竹筒にあることに気付くまで~そう時間はかからなかった。


その竹筒の中身は~彼らが『TUA』と呼んでいた米をベースに造った酒だったのである。


酋長は昼間から酔っぱらっているようで、すっかりご機嫌だ。


こちらにも、しきりに“トゥア”を勧めてくる。


少し口にしてみたが~結構いけた。


やがて~男たちも“狩り”から帰って来て、ロングハウスの住人が勢ぞろい。


そして、何と彼らは全員揃って私たちのために~『歓迎の祝宴』を開いてくれたのである!








SORRY~Now Wrighting❗️

我がチームの目指す場所は~ここから船に乗り、さらに奥地へと入っていく。

一人がやっと収まる幅しかない…細長い船に“縦”に並んで座り終わると~小さなエンジンがかけられた。

川の上を滑るように走っていくこの『クルーズ』は、最高に迫力があった。

“雨季”のために~水かさが増している。

川の色は「真っ茶」で、何が潜んでいるかわからない。

川の両岸には~ひたすら『ジャングル』が続き、ひとつひとつの熱帯雨林の大木が…広い川面を全て覆っている。

よく見ると、時々川の中に~“仕掛け”らしきものが見えた。

…イバン族のものであろうか?

30分ほど川をさかのぼった頃~突如として、家らしきものが見えた。

女の人が…岸辺でこちらを見ている。

チームメイトが~彼女に何やら話しかけた。

やはり…こんなジャングルの中でも、人が住んでいるのだ。

自分がそのために来ているのも忘れて~何故か、すごく「感動」した!





粗末な木製の家が~どこまでも長く続いている。

ドアらしきものも見られない入口が…何mかごとに、続いている。

そのひとつの入口が、ひとつの家族の住居を示しているのだろうか…

入口の前には、長くロープが張られて~薄汚れた洗濯物が干してあった。

少し高くなった床の下を…ブタとニワトリが走り回っている。

若者たちが集まって騒いでいるのだろうか~電気的なギターの音と歌声が、鳴り響いていた。

地面には…プラスチックバッグ・食べカス・ジュースの缶等が散乱している。

その間をぬうように“痩せこけた老婆”が、行き来していた。

これが~あの『ロングハウス』なのか…

何を期待していたわけではないけれど、なぜか“わけのわからないショック”が…体を貫いた!

様々な複雑な想いを残して~サンダカンを後にした。

次の目的地は…そう“サラワク州都クチン”である。

そのクチンでの最大の目的は~何と言っても、『BORNEOジャングル奥深く住む“イバン族”』が住むという「ロングハウス」を訪ね…(無謀にも)一夜を共にすることである。

クチンへの到着が夜遅かったため、その夜はホテルに一泊し~翌日、一路南へ…

ほどなく~辺りは深いジャングルとなる。

我々のチームは、川沿いに…その源流を目指した。

以外に~道路はよく整備されている。

道の両側は、やはりひたすらの熱帯雨林ではあるが…所々にわずかな田畑が、その顔を覗かせる。

突然、町らしき場所にたどり着き~休息を取ることにした。

この町は…例にもれず中国系の町であったが、他に様々な種族の人々であふれている。

何と、“生きたにわとり”をプラスチックバッグに入れ~平然と歩いているおばちゃんの姿が、強烈であった。

この町で…イバンの人たちへの『お土産』を買う。

お土産と言っても、駄菓子屋のような店で「飴玉」等を~いくらか買うだけである。

両手いっぱいに差し出したお菓子は…3リンギ(約150円)しなかった。

~さぁ、再びさらなる“奥地”を目指す。

4時間ほど車に揺られただろうか…

知らぬ間にウトウトしていたところを~チームメイトに起こされ、車から降りる。

目の前に開けた異様な景色に…一瞬足がすくんだ!

思い返せば~『抜糸』なんて…全く「My health」の記事に載せるほどのことではなかった。

今…完全に喉元にナイフを突きつけられながら~病室のベッドの上で、鬱々としている。

もしかしたら~このままこの場所から出られず、人生の終焉を迎えるかもしれない。

その宣告を受けてから…実に1年1ヶ月余り~

まだ、しぶとく生きてはいるものの~あるDRに言わせると…「早くて年内!」とのこと。

まぁ、体が動く限りは何事にも全力で取り組んでいこうと思ってはいるものの…

今~困っているのは、『極度の食欲不振』と『不眠』…

「美味しかったぁ~」と、お腹いっぱいになるほど食べたり、「あぁ、よくねたぁ~」とぐっすり眠れることが…どれだけ幸せなことか~

身にしみて感じてしまう…

どうも~自分の中の様々な欲求が、低下してしまっているようだ。

しかし、命ある限り~今ある能力やわずかな『モチベーション』を大切にしながら…残り少ない日々を少しでも充実させていきたい~そう願ってます!