「ち……ちょっとエドナ」
「エ、エドナ様っ」
登山道から押し出されそうになったミクリオとアリーシャが、戸惑いの声をあげると、そんな三人を非難するようなスレイの声が彼らの耳を打った。
「もーーっ。みんな遅いよ。なにしてんだよ」
 先に登っていったはずのスレイが、いつの間にか三人の近くまで戻って両手を腰にあてて仁王立ちで彼らを見ている。その仕草はかなり子供っぽく見えた。
「どうやらアリーシャが正しかったようね」
「えっ……エドナ様……」
 慌ててアリーシャは発言を撤回しようとするが、言葉に詰まって黙りこんでしまった。
「悪かったスレイ。すぐ行くから少し待っててくれ」
 ミクリオがスレイに返事をすると、エドナに目配せしてアリーシャの手を引いた。
「三人ともなにしてんだよ」
 唇を尖らせて文句を言うスレイに、ミクリオはもっともらしく言った。
「稀有な体験は人を成長させるのか否かっていう話をしていたんだ」
「な、なんだよそれ……」
 スレイが理解できないという顔で声をあげるのを見て、アリーシャが思わず吹きだした。
「あ、すまない。スレイのことを笑ったわけではないんだ」
「アリーシャまで。いったいなんなんだよ」
 まったくわからないという顔のスレイにエドナが告げる。
「坊やは面白いってことよ」
「え、ミクリオのこと言ってるの、エドナ」
「なんで僕なんだよ」
「だってエドナはミクリオのこと坊やって言ってたじゃないか」
「ミクリオ坊や。略してミボね」
「だからそれ、やめてくれないか」
 ミクリオがうんざりしたように溜め息をついた。
「それと、あまり時間がないんだから不毛なやりとりはここまでにして、先を急ぐよ」
「……ミボに怒られちゃったじゃない。アリーシャのせいよ」
「えっ。わ、私のせいですか」
「そうよ、反省なさい」
「エドナ、いい加減に……」
「はいはい、わかったわよ」
 エドナは不服そうな顔で肩をすくたが、それ以上茶化すかはしなかった。
 それからしばらくはたいして話すこともなく、四人は山道を登り続けたが、突然なんの兆しもなくスレイが立ち止まった。
「どうした。疲れたのか、スレイ」
「そんなことないけど、このお弁当いつ食べるのかなって」
「……」
 スレイがバスケットを持った右手を突きだした。中身はもちろん今日のお弁当だ。
 仲間たちはスレイの右手にぶら下がるバスケットを見つめた。
「このまま泉まで行くと、食べそびれちゃうと思うんだけど」
「うん……」
「ま、そうなるかしらね」
「それじゃ作ってくれた人に悪いだろ」
 そう言ってスレイは三人の顔を順番に見た。
 彼らはきょとんとした表情をしていたが、不意に笑いだした。
「な、なんで笑うんだよっ」
 スレイの顔が一瞬でゆでだこのように赤く染まった。
「いや、だってスレイ……」
「すまない。だが……」
「アナタってホントに……」
 お腹を抱えて笑う三人を見てスレイは地団駄を踏んだ。
「もういいよ。なにも言わなかったことにするから」
「ま、待て。悪かったスレイ。だからちょっと待って」
 右手でお腹を押さえながら、ミクリオが左手を伸ばしてスレイの腕を掴んで引き止めようとする。
「べつにここで食べなくてはならない道理もないだろう。泉に着いてからサフィール殿と一緒に、遅めの食事を摂ってもいいのではないか」
「そうね。こんな山の中じゃまともな食事なんて摂れてないだろうから、涙流して喜ぶわよ、きっと」
「う……ん……」
 仲間たちの説得に対して、どうもスレイの歯切れが悪い。
「スレイ……駄目なのか」
 アリーシャがスレイの顔を覗きこんで恐る恐る尋ねる。
「もしかしてバテたとか」
 エドナの何気ない一言に、スレイの両肩がぴくりと震えた。
「図星だね」
「そのようですね」
「ま、そんなものよね。それでどうするの」
「ここで少し休んでもいいんじゃないかな」
「そうですね。ミクリオ様、私も賛成です」
「あら、ワタシも構わないわよ」
 ミクリオとアリーシャがエドナを見た。
「なによ、その目は」
「いや、いろいろ損してるんじゃないかなって……」
 ミクリオが左の拳で口元を押さえた。
「うるさいわね。ミボのくせに」
 エドナはぷうっと頬を膨らませると、道の脇の草むらに腰を下ろした。そして自分の隣を指す。
「座りなさい。スレイ、それからアリーシャも」
「おい、僕はどうすればいいんだ」
「ミボはそのままでいいでしょ」
「ちょっと……勘弁してくれよ」
 左手で額を押さえるミクリオを、スレイは笑って眺めると、アリーシャに右手を差し出した。
「座ろ、アリーシャ」
 アリーシャはうなづいてスレイと並んで座った。
「考えてみればスレイにはずっとお弁当を持ってもらっていたのだな。重かっただろう、すまない」
「そうね。そろそろ交代するべきかしら、ミボと」
「え、エドナ様。 それはミクリオ様に申し訳が……」
「あら、女の子に荷物を持たせるのはどうかって、ミボが言い出したのよ。いいじゃないの、この先人間に会うこともないだろうし」
「そうだよ。サフィールは人間だけど、天族や導師のかとよく知ってるし」
「スレイまで……」
 アリーシャは困った顔でスレイを見た。
「それなら問題ないじゃない。ミボ、スレイと交代なさい」
「おい、エドナ……」
「で、ですがエドナ様っ……」
 抗議の声をあげるミクリオを無視して、狼狽えるアリーシャにエドナははっきりと告げた。
「アリーシャ、荷物は男どもに持たせておけばいいのよ。わかったわね」
「は、はい。エドナ様」
 有無を言わさぬエドナの口調にアリーシャが大人しくうなづくと、少女は傘の先を水の天族に向けた。
「決まりよ。ミボはお弁当を持ちなさい。さっさと行くわよ」
「珍しく前向きだね、エドナ」
「……べつに」
 感心したように言うミクリオからぷいっとそらしたエドナの頬が少し赤く染まっていた。
 ミクリオは肩をすくめると、バスケットを持って仲間たちに声をかけた。
「さあ、行こうか。スレイ、アリーシャ」
 スレイとアリーシャはうなづいて立ちあがると、もうすでに立っているエドナと一緒に再び登山道を歩き始めた。
 しばらく登山道を進むと、やがて周りの空気が水を含んできた。
「もう少しで泉に着きますよ、エドナ様」
「そうなの。ちょっと湿っぽくなってきたと思ってたけど」
「あ、近くに滝もあるんです。湿っぽいのはそのせいだと思いますが……」
「エドナもわかるのか」
 意外そうにミクリオが尋ねると、エドナは不機嫌そうにミクリオを見上げた。
「ワタシをなんだと思ってるのかしら、ミボ」
「水の眷属でもないだろう、エドナは」
「あら、ホントにそういうつもりなのかしら」
「決まっているじゃないか。逆にエドナはどう思ったんだ」
「……そんなのどうだっていいじゃない」
 ふいっと背を向けたエドナの後ろ姿を眺め、ミクリオは肩をすくめた。
 山道を一歩登るごとに空気は湿り気を増していき、ついに辺りに霧がたちこめてきた。
「また霧だわ」
「さっきのとは違うけどね。この霧は泉の向こうにある滝から流れてくるんだ」
「それなら泉じゃなくて、滝つぼなんじゃないの」
「え……そうなんだ」
「いや、違うだろうスレイ。滝と泉は離れていたじゃないか」
「そうなの」
 エドナのふてくされたやうな声を聞いて、アリーシャが心配そうな顔になった。
「エドナ様、その……」
「いいんだよ、アリーシャ。エドナは僕に言われたのが気に食わないだけなんだから」
 エドナが横目でミクリオをじろりと睨むのを見て、スレイが吹きだした。
「ぷっ」
「うるさいわよ、スレイ」
 エドナの振り下ろした傘がスレイのすねを打って、思わずスレイは声をあげた。
「いてっ」
「大丈夫か、スレイ」
「あ、うん。大丈夫だよ、アリーシャ。はは……」
 スレイは血右手で頭を掻きながらアリーシャに笑ってみせた。
 それからしばらくスレイたちは山道を無言で歩いていた。やがて彼らの目の前を木々が並んで向こう側の景色を遮っているのが見えてきた。
「エドナ様見えてきました。あの木々の向こうに泉があります」
「やっと着いたのね」
 嬉々としてアリーシャが指差す先を見て、エドナはうんざりした声で言った。
 しかしそんなエドナの気分などお構いなしに、スレイが真っ先に木々の向こうへ飛びだした。
「さあ、早く。みんなっ」
 ミクリオは肩をすくめて、アリーシャは苦笑して、エドナは溜め息をついてそれぞれスレイの後に続いた。
 木の枝をかいくぐった先は、石できれいに舗装された参道が広がっていた。
「着いたぞーー」
 スレイが両手を天に突きだし、大きく伸びをした。
「久しぶりだね」
「……アナタたちどうしてそんなに嬉しそうなの」
 エドナが半ば呆れたように尋ねると、スレイは笑顔で答えた。
「いいところだろ、エドナ」
「……じめじめしてなければね」
 眉をひそめてエドナが呟いたのは、逆光でスレイの顔がよく見えなかっただけなのかもしれない。
「アリーシャ姫、よくぞお越しくださいました」
 耳にキンキン響くあの特徴的な声が聞こえてきて、スレイたちは一斉に同じ方向を見た。
「おや、ご一緒されているのは、導師スレイではございませんか。いやあ、よくぞおいでくださいました」
「……やあ、久しぶり。サフィールさんは相変わらずみたいだな」
 スレイが苦笑すると、サフィールの片眼鏡が光を反射した。
「当然です。私には大いなる使命がございますから」
そのまま高笑いを始めたサフィールに、スレイたちは触れないでそっとしておくことにした。