「ふあ〜〜あ」
 大きく伸びをしてスレイは目を覚ました。ふわふわの毛並みがスレイの頬を撫でる。
「……ここどこだっけ」
 スレイは体を起こして周囲を見回した。顔より少し低い位置に、テーブルと向かい合ってソファがあるのが目に入った。
「えっと……」
 スレイは目を瞑り、右手で額を押さえて記憶を辿った。
「昨日マーリンドに着いて、すぐにネイフトさんに会いに行って……って、ここネイフトさんの家だった」
 大声をあげてスレイは勢いよく立ち上がった。
 当然その声は部屋の外まで聞こえたようで、狼狽えたネイフトがドアを開けて顔を覗かせたほどだった。
「どうされましたか、スレイ殿」
「あ、おはよう。ネイフトさん……」
「おはようございます。よく眠れましたかな。寝室にご案内もせず申し訳なかったのじゃが、スレイ殿はあのままソファでご就寝になられたのでな」
「え、それは……」
 なんとか体裁を取り繕おうと、口を開いたスレイのお腹が大きな音を立てた。
 ぐるるるるるるる。きゅるるるるるる……」
「そういえば昨日は夕飯も召し上がっておられませんでしたな。簡単ですがすぐに朝食をご用意しましょう」
 いそいそと部屋を出るネイフトの口角が上がっているのをスレイは見つけてしまい、思わずりんごのように顔を真っ赤にしたのだった。
 弁解をすることも叶わなかったスレイは、右手で頭を掻くと、ソファに腰をおろした。
 ほどなくしてネイフトが昨日の年配の女性を伴って客間に戻ってきた。女性が押すワゴンには朝食にしては豪華な品々が乗せられている。
 ネイフトは女性と手分けして朝食をワゴンからテーブルへと移していく。
 テーブルに並んだ料理を見て思わず生唾を呑むスレイに、ネイフトは促すように声をかけた。
「ではいただきましょうか、スレイ殿」
「あ、はい。いただきます」
  スレイがバスケットに盛られたパンを手に取ると、ネイフトは溜め息をついた。
「まことに済まないことですが、これっぽっちしか用意できませんで」
「そんなことないですよ」
 スレイは慌てて左手を振った。
 テーブルの上に並んでいるのは、ミルクとパンとジャム。とき卵とチーズのスープにハムエッグだった。普通の朝食がパンとスープなので、かなりのご馳走であるといえる。
 突然の訪問だったのに、おそらくあの年配の女性と、もしかしたらネイフトも朝から駆け回って食材を調達してくれたのかもしれない。
 そう思うとスレイは胸が熱くなるのを感じるのだった。
 ネイフトの心尽くしのもてなしの朝食を終えると、あの年配の女性がスレイとネイフトに紅茶をいれた。昨晩と同じ香りが鼻腔をくすぐる。
「紅茶なんてレディレイク以来だな」
 スレイがしみじみと溜め息をついた。
「ほう、レディレイクで」
「うん。アリーシャの家の紅茶だったんだけど。初めて飲んだときは感動したなあって」
「なるほど、アリーシャ殿下に振る舞われたのですか。どうりで」
 うなづきながら紅茶を一口すすったネイフトに、スレイが尋ねる。
「え、どうして。ネイフトさん」
「紅茶のようなぜいたく品は、なかなか口にすることはできませぬからな」
「でもネイフトさんも……」
「はっはっは。ワシはこれでもマーリンド代表じゃ。来客用に常備しておりますぞ」
「そうか、そうだよね」
 スレイが右手で頭を掻くと、ネイフトはいたずらっぽく笑った。
「まあ、もっともワシの場合は趣味も兼ねておりますがの」
 スレイがほっとした顔でカップの中の朱い液体を眺めると、ネイフトがぽつりと尋ねた。
「アリーシャ殿下といえば、その後どうなされたかご存知ですかな、スレイ殿」
「え、アリーシャは解放されたんじゃないの」
 スレイが驚いて顔をあげると、ネイフトは静かに首を横に振った。
「そのような話は聞いておりません。ワシも色々働きかけておりますが、王宮はその件に関しては沈黙を守っておられる状態です」
「そんな……」
 スレイは再びカップに視線を落とした。いれたばかりの紅茶はかぐわしい匂いの湯気をたち昇らせて、スレイにアリーシャのことを思い出すように誘っているように、スレイには見える。
「……オレ、アリーシャを助けに行きます」
 スレイはまだ熱い紅茶をかなり苦労しながら飲み干すと、勢いをつけて立ちあがった。
「左様ですか。ではくれぐれもアリーシャ殿下のこと、よろしく頼みますぞ、スレイ殿。それと……」
 ネイフトは立ちあがると、棚に飾られたあの宝玉を手に取った。
「これも持って行きなされ。スレイ殿に必要なもののようじゃからの」
「え、でも……」
「ワシが持っていても宝の持ち腐れじゃろうて。昨日の様子からして、スレイ殿に必要なものとお見受けしたが……」
「いえ。それが必要なのは導師で、今のオレにはなにも……」
「スレイ殿。……承知しました。では次に導師が必要とするまでお預かりすることと致しましょう」
「うん。お願いします」
「スレイ殿」
 ネイフトは部屋を出ようとするスレイを呼び止めた。
「マーリンドに住む者にとっての導師は貴殿じゃ。救世主はスレイ殿なのじゃ。そのことには誇りを持ってください」
「ありがとう、ネイフトさん。今度はオレ、アリーシャを連れてここに来ます」
「楽しみに待っておりますぞ。スレイ殿」
 ネイフトは微笑んでスレイを送り出した。
 ネイフト宅を出ると、スレイは大きく息を吸った。
「さて、レディレイクに行くぞ」
 息と共に吐き出すスレイの前には、ミクリオとエドナが立っていた。
「やっと出てきたわよ」
「やっぱりゆっくり休んだら見えるようになるってものでもなかったね」
 ミクリオが肩をすくめると、ノルミンたちがうなだれた。
「ミクリオはん、堪忍な。ウチらの考えが甘かったみたいや」
「気にしなくていいよ。それぐらいで霊応力がもどるなら、とっくに僕たちが見えていただろうから」
「……ワタシは気にするわよ」
 エドナがノルミンたちを見おろすと、小さい天族たちは抱き合って震えだした。
「あんまりいじめるなよ、エドナ」
「だからこいつらを甘やかしたらダメだって言ってるじゃないの。なにしろこいつらは……」
「はいはい。わかったよ、エドナ。さ、スレイももう行くみたいだし、僕たちも急ごうか」
 軽くあしらわれて憮然とするエドナを連れて、ミクリオはスレイの後を追った。
「ミクリオはん、頑張って」
「また来いよな」
 大きく手を振って見送る加護天族たちに左手をあげてミクリオが応えると、エドナは頬をふくらませた。
「ワタシには挨拶はしないのね……」
 ミクリオはなにも言わずに肩をすくめた。
 広場を離れたスレイは、道具屋で必要なものを揃えるとマーリンドを発った。
 彼の後ろには人知れず、仲間にすら気づかれることなく二人の天族がついていく。
 そんな奇妙な一行は街道を川に向かって歩いていた。
以前スレイがエドナの力を借りて、橋の土台を作った川だ。
 商人たちの話では仮設の橋が架かったということだったが、スレイはまだその橋を見たことがなかった。だからどんな橋が架けられたのか、スレイは少しわくわくしながら橋に近づいた。
「これが……」
 川を覗き込むと土台の岩の上に、簡単に木の支柱を立て、その上に板を渡してあるだけの粗末な造りの橋がそこにあった。
 しかし落胆することなく、スレイは興味深げに橋を覗き込み、その後ろ姿をミクリオとエドナが眺めている。
「よお、ボウヤ、エドナちゃん。久しぶりだな」
 その軽薄な声を聞いたエドナがうんざりしたような顔をした。
「アンタは相変わらずね」
 エドナはその男の顔を見ずに答えた。しかしその声に心当たりあるものの、確信が持てないミクリオは男の顔を見た。
 男はミクリオの心当たりのある者だった。
 男は霊峰でマウンテントロールを殺し、ドラゴンを殺すと言った。
「ザビーダ……」
「エドナちゃん、嬉しいねえ。俺様のことを気にかけてくれるのかい」
 ミクリオの呟きをかき消すようにその男、ザビーダはおどけた口調で大袈裟に喜んだ。
「そんなワケないでしょ」
 めんどくさそうにエドナは溜め息をついた。少女の隣でミクリオが呆れた顔でザビーダを見る。
「酷えなあ。俺とエドナちゃんの仲じゃねえか」
「誰と誰の仲ですって」
「じょーーだんっ。冗談だって。……はあ」
 エドナに傘の先端を向けられたザビーダは、慌てて両手を前に突き出した。
「ところでどうしてアンタはここにいるのかしら」
「俺か。俺は導師様の偉業を辿っていたんだけどさ、そこで偶然エドナちゃんたちを見つけたってワケだ」
『はあ?』
 両手を腰に当てて胸をそらすザビーダに二人は非難の声を浴びせた。
「おいおい。エドナちゃんだけじゃなくて、ボウヤまでもかい」
「ボウヤじゃない、ミクリオだ」
 ミクリオが憮然とした顔で訂正すると、ザビーダは得意げな顔でうなづいた。
「じゃあ、ミク坊だな」
「略してミボよ」
「なるほど」
 ザビーダが右掌を左の拳で叩くと、ミクリオが声を荒げた。
「ミボじゃないっ」
「ああ、済まなかった。忘れてくれ、ボウヤ」
「……ボウヤじゃない」
 疲れたような声でミクリオは呟いたが、ザビーダには届かなかったのか、続けて尋ねてきた。
「もう一人のボウヤはどうしたんだ。俺様にまるで反応がないじゃねえか」
 ザビーダは急ごしらえの板の橋の上から川面を覗き込むスレイに視線を移した。
「スレイは……」
「あの子は導師を引退して、普通の人間になったのよ」
「……へ、なんだいそれは」
 きょとんとした顔のザビーダを、ミクリオとエドナは物憂げな表情で眺めた。