「スレイは霊応力を失くしたって言ったのよ」
 エドナの隣でミクリオが目を伏せた。
「どうやら冗談ってワケでもなさそうだな。なんでそんなことになった……かはだいたい想像がつく、か」
 ザビーダは肩をすくめると、左手を顔の高さにあげた。
「しょうがねえ。今日のところはこれでお別れだ。次いつまた会うかはわからねえがな」
「もう二度と会わなくていいわよ」
「つれねえな。だがそういうワケにもいかねえだろ。アイツの件があるんだからよ」
 ザビーダは左手をかざして遠くに霞む険しい山を眺めた。その山にはいつの頃からかドラゴンが棲みついている。
「……ちょっと、お兄ちゃんをどうする気なの」
 エドナの顔色が変わった。左手に持った傘を突き出して、先端をザビーダに向ける。傘の先からエドナの殺気が滲み出ているのを感じながらも、ザビーダは構わず続けた。
「封印は解かれたんだ。いつ奴が街を襲ってもおかしくはないんだぜ」
「……っ」
「なんだって」
「その口ぶりだとまるっきり知らないワケでもないみてえだな。ま、そういうことだ。じゃあな」
 ザビーダが左手を額に添えると、つむじ風が吹いて彼の姿を消し去った。
「エドナ……」
「神器を持ち出しても、しばらくは封印の効果は続いてるはずだったの。でも思ったより早く効果は切れてきているみたいね……」
「なんだって。それじゃあ一体どうすれば……」
「もう一度神器を祀るか、天響術で結界を展開する仕掛けを作るか……。どちらにしても今のワタシたちじゃ無理ね」
「そんな……」
 エドナとミクリオは霊山を見上げた。遠くから眺めている限りでは、そこにドラゴンが棲んでいるようには見えない。
「なんとか被害が出ないようにしないと……」
「そうね。でもどうすることもできないわ」
 ミクリオが橋に視線を戻すと、スレイは川を渡り終えて流れを覗き込んでいる。
「もうすっかり治ったみたいだな。ウーノさん、どうしてるだろう」
 そう言うとスレイは表情を曇らせた。しかし頭を左右に振って頬を掌で叩くと、川に背を向けて歩き始めた。
 スレイが川を離れたことに気づいたミクリオがエドナを促した。
「そろそろスレイはレディレイクに向かうみたいだ。僕たちも橋を渡らないと、見失うかもしれないな」
「そうね。どのみちこっちの問題は、ワタシたちだけじゃどうすることもできないものね」
 自分を納得させるように言うと、エドナはミクリオに続いて橋を渡った。
 対岸につくとエドナは一度だけ左手にある霊山を仰いだ。
 きり立った山は訪れる者を拒絶するようにそびえ立っている。そしてそこにはドラゴンになってしまったエドナの兄が封じられていた。
 エドナは肩をすくめると、レディレイクへと続くゆるやかな坂を登った。

 なだらかな坂を登りきると、高原に出た。その先は下り坂になっていて、さらにその向こうに湖が見えてくる。
 湖の上には大きな街が浮かんでいるように見えて、初めて見た者は感嘆の表情で都を眺めるものだが……
「エドナ、レディレイクだ」
「言わなくてもわかるわよ」
 エドナが驚くどころか憮然として答えるのを見て、ミクリオは意外そうな顔をした。
「ずっと霊峰にいたんじゃないのか」
「……殴るわよ」
 エドナは仏頂面のまま、両手で傘を持ち頭上に振り上げた。
 反射的にミクリオが両腕で頭をかばうと、エドナは溜め息をついて右手を腰に当てた。
「もうずいぶん前になるけど、この辺りに来たことはあるわ。もっともそのときはこんなに大きな都じゃなかったけどね」
「それはどれぐらい前のこ……」
 なんの予告もなくエドナの傘がミクリオの足を襲い、その痛みにミクリオは呻き声をあげた。
「なんなんだ、痛いじゃないかっ」
 ミクリオが抗議すると、エドナは少年の鼻先で傘を広げて歩き始めた。
「って。おい、エドナ……」
 殴られた理由がわからず戸惑うミクリオに背を向けたままエドナは呟いた。
「本当、わかってないんだから」
 それからは二人は黙々と坂を下っていった。
 レディレイクへと架けられた橋の前で、スレイは王都に入る手続きを受けていた。
「そのいでたちは、もしや導師様ではいらっしゃいませんか」
「え、いや。えーと、なんて言うか……」
 スレイか返答に困っていると、警備兵は笑った。
「ははは、冗談ですよ。似合ってますよ、導師風の衣装。ようこそレディレイクへ」
「はは……ありがとう」
 スレイは礼を述べると、そそくさと橋を渡り始めた。彼の後に続いて警備兵の前を二人の天族が通ったが、もちろん咎められることはなかった。
 橋を渡り終えると、スレイは王都レディレイクの地に足を踏み入れた。
 久しぶりに訪れた王都は、マーリンドに向かった日となにも変わっていなかった。
 右手の方では大きな水車が今も変わらずに回り続けている。
 スレイは王都を初めて訪れた日のことを思い出した。
「あのときはミクリオも一緒だったんだよな」
 しみじみと水車を眺めるスレイの隣にミクリオの姿は見えない。
 スレイは溜め息をつくと、宿屋や商店の並ぶ通りを抜けて階段を上った。
 階段の上の広場の奥にある聖堂には加護天族のウーノがいるが、スレイはそちらには向かわず、右手にある階段の方に進んだ。
 階段の上には大きな扉が見える。アリーシャの屋敷がある貴族街へと続く扉だが、その脇には警備兵が立っているのが目に入った。
「やっぱり通してくれないだろうな……」
 スレイの呟きを聞いたエドナがミクリオに尋ねた。
「そうなの」
「多分ね。アリーシャが導師と行動を共にしていたことはよく知られているだろうし、会おうとすれば当然妨害される」
「そうなのね……」
 相槌を打つとエドナは階段を上り始めた。
「エドナ、どうする気だ」
「決まってるでしょ、こうするのよ」
 警備兵の背後に立ったエドナは、両手で傘を持ち大きく振りあげると、青い兜めがけて叩きつけた。
「……っ」
 警備兵は声にならない悲鳴をあげて、ゆっくりと前のめりに倒れていった。
「ほら、通れるようになったわよ」
 エドナはスレイとミクリオに向き直り、左手で傘を地面に突き立てて右手を腰にあてた。しかしその姿はスレイには見えず、唖然とした顔で少年は扉と突っ伏した警備兵をただ見比べるのみであった。
「仕方ないわね」
 やれやれというようにエドナは溜め息をつくと扉を押し開いた。
「ミボ、行くわよ」
「あ、ああわかった。けどスレイはどうするんだ」
「勝手に来るでしょ」
「しょうがない……か」
 ミクリオは肩をすくめるとスレイの横をすり抜けて扉をくぐった。
「う……うう。なにがあったんだ」
 兜を抑えて呻く警備兵の声に我に返ったスレイは、慌てて貴族街へと走っていった。
 扉の向こうの貴族街はひっそりと静まり返っていて通りを歩く人の姿もない。
 そんな人気のない街並みを、スレイは奥まったところにあるアリーシャの屋敷へと急いでいると、曲がり角の向こうからどこかの屋敷の使用人らしい男がスレイの方に歩いてくる。
 男は訝しむような顔でスレイを一瞥したが、それ以上は関心を向けず、なにも言わずに歩き去った。
 ーー通報されるだろうかーー
 スレイは心配そうな表情で振り向くが、使用人がスレイとすれ違う前と同じ速度で歩いているのを見て、少年はほっと胸を撫でおろした。
 おそらく男にはスレイを通報するよりも、彼の主人から申しつけられた仕事の方を優先したのだろう。
 スレイはそれ以上使用人のことを気にするのをやめて、アリーシャの屋敷へと急いだ。
 ついにアリーシャの屋敷の近くの角までスレイは辿り着いた。そこで一旦足を止め、塀の陰からアリーシャの屋敷の辺りの様子を伺う。
 やはりアリーシャの屋敷の門の両脇には二人の兵が槍を片手に周囲を見張っている。
「やっぱり見張られているわね」
「ああ。軟禁されているのは間違いないね」
 

人間からは見えないという利点を最大限に活かして、ミクリオとエドナはアリーシャ邸の門の前に立っている兵士をまじまじと眺めた。
「こいつら、戦場やマーリンドにいた兵と少し違うみたいね」
「おそらくバルトロの私兵だろう。王宮にさえ自分の兵を配するような奴だ。おおいにありえる」
「じゃあさっきの門兵も……」
「あっちは正規兵だと思うよ」
「そう。じゃあ後で謝るわ」
 心にもないことを言うエドナに苦笑しつつ、ミクリオは杖を構えた。
「あら、やっとその気になったのね」
 エドナが口角を上げると、ミクリオは肩をすくめた。
「フリーズランサー」
ミクリオが放った氷の矢放った兵士の足元に刺さり、地面を凍りつかせた。
「な、なんだ。足がっ……」
「おいっ、凍ってるぞ。一体なんで……」
 足を地面と一緒に氷漬けにされて狼狽える兵士たちの間を、スレイは悠々とすり抜けると振り返った。
「ありがとう。ミクリオ、エドナ」
「べっ……別になんでもないわよ」
 エドナがぷいっとそっぽを向くと、ミクリオが顎に左手をあてて笑った。
 再びミクリオたちに背を向けて、アリーシャ邸の玄関に向かうスレイを眺めながら、ミクリオはエドナに言った。
「よかったね。スレイが気づいてくれて」
「……」
 エドナが真っ赤な顔で左手に持った傘を振り下ろすと、ちょうどそこにあったミクリオの足にぶつかった。
「いたっ」
 ミクリオが顔をしかめて声をあげるのを見て、気が済んだのかエドナは傘をさして歩きだした。
「さ、ワタシたちも行くわよ」
 そのままエドナは氷漬けの足を引っこ抜こうともがく兵士たちの間を通って門をくぐると、ミクリオも彼女の後を追った。