下丸子へ通う75歳の元社長のブログblog -26ページ目

香港での食べ歩きパートー2

普段、下丸子パン工場勤務帰りの16:00ごろ立寄る呑み屋は

特殊な場所しかありません。

野毛の場外馬券場に近い地下鉄桜木町駅だけです。


最近は立ち飲み出来る屋台を中心に足が向いています。

香港に行っても重慶大厦にインドを中心とした各国のカレーを食べに

よく通いましたが今回は日程の都合で一度も行きませんでした。


重慶大厦に入っているテナントを見て歩くのは楽しみの一つにしています。


入口はアフリカ・中東・インドをはじめ東南アジアの香辛料の匂いが

ぷんぷんするエスニックの雰囲気は好きですが今回はパスしました。


前日の鍋料理が旨くて食べ過ぎたこともあり昼食は軽くすることにしました。


場所はホテルから近い尖砂咀食料品市場の中にある「徳發」にしました。

徳發牛丸麺は近くのサラリーマンでいつも込み合っている。


厨房の脇にゆで上げられた牛丸が無造作におかれています。


厨房のコックは来るたびに変っていますが味が変らないのは不思議だ。


少し食べかけてからの写真です。


同じく食べかけてからの湯であげた青野菜の一品


団体旅行では市場の屋台料理をわざわざ食べに行く機会ができません。

15年前に長い付き合いの友人夫婦をはじめて市場に連れて行きましたら


周りの屋台設備、客だね、見た目の不潔感(決してそんなことは無い)

雰囲気に耐えられず箸もつけずに参ってしまいました。


結局近くのマクドナルドでお子様の好きなハンバーグを食べたそうです。

その後香港旅行を誘っても理由をつけて参加しないのは困ったことだ。


過去にも何回か取り上げた徳發牛丸ですが行くたびに楽しみにしています。


香港での食べ歩きパートー1

「消えた横浜の娼婦たち」を8回に分けて書きましたがアクセスの多さに
驚きました。当時のラジオ、新聞、雑誌には横浜で起きた事件は書いても
その背景にあるダーティーな部分は官報には書き込まれないからでしょう。

書いている途中から仕事を兼ねて香港出張にでかけました。
毎回来るたびに屋台・ディープな下町料理を中心に食べ歩いていますが
来るたびに料理の変化がでています。

今回一諸に会食した香港人二人は(パイロット、銀行役職)一般香港人よりも
高額年収ですが二人とも
「旨くて高い料理屋というだけではわざわざ食べに行かない」と話しています。

特に最近の福臨門酒家・フォーシーズンの中華料理などは
値段は一流だが料理は普通」味にうるさい香港人にとって
わざわざ食べに行くほどの事はない、と話していました。

料理評論家で有名な「蔡 欄」料理専門雑誌も推薦を取りやめてしまいました。
私も団体行動以外は飲み食い一食700香港ドル(10000円)は払いたくない。


この風景を見て泊まったホテル名が直ぐにわかる方は香港通になるでしょう。

この景色でも私の泊まった部屋はハーバービューではありませんが
部屋は綺麗で清潔、満足できる一室です。


初日の夕食は二階建てバスに乗り下町の九龍城にある鍋料理の
「方榮記」にしました。注文には野菜たっぷり注文、満足できた。


19:30ごろでしたがごらんの通り混雑しています。

鍋料理に入れる肉については牛、マトン、豚、鶏肉などありますが我々は
霜降り牛肉だけにして青野菜、青ネギ(浅葱タイプ)たっぷり注文する。


持ち込みのウイスキー白州の氷は普通の水道水を冷蔵庫で作ったもの。
40度のアルコール消毒しながら飲むので腹痛はおこさない。

ウイスキーの持込料金はタダにする。その代り3ッ代目のセガレにストレート分
コップ一杯プレゼントする。彼のウイスキー好きは前から分かっている。


九龍城には昔からの旨い焼豚屋がある。先代のオヤジからの常連客でした。
そこで皮付きチャーシューを買い込み無料で持ち込みして食べる。


下町のレストラン、屋台には必ずトイレットペーパーがテーブルに置いてある。
布巾、テーブル拭きに利用するためです。素晴らしいアイデアです。


現地では「山根」と表現していますが豆腐の湯葉を油で揚げた一品
これが中々の隠し味になり旨い。香港初日の夕食は日本人に教えたくない
地元一般庶民が気軽に行ける鍋料理でした。


スターフェリー前広場脇に通り抜けられるオーシャンビル手前に孫が
喜ぶであろう、映画宣伝用スパイダーマンが自動車をクモ糸で巻き取る。


人だかりで記念写真を写している親子連れを見ました。


香港に来た時には必ず乗っているスターフェリーですが下記のスターフェリーは
はじめて見ました。


香港に来たら一度は乗りたいスターフェリー。

「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-8

昨日は横浜の地名の由来を山手町。山下町について書きましたが

もう一度「消えた横浜情婦たち」パートー8を書くことにしました。



ヨコハマメリーさんがはじめてメディアに登場したのは

「週刊ポスト」の昭和 57年1月29日号でした。

その後映画、芝居、歌に取り上げられました。


「消えた横浜情婦たち」の190ページにびっくりした記事が書かれていました。


(貼り付けはじめ)

映画「ヨコハマメリー」レイトショー初日、舞台挨拶に立った渚ようこは

「宇崎竜童から直接聞いた話」として


「昭和50年の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(作詞・阿木燿子)

歌・ダウン・タウン・ブギブギ・バンドのモデルとなっている人物って、

じつは、メリーさんのことなんですね」


と語っている。この発言が正しいとすれば、メリーさんをモチーフにした

最初の歌は宇崎竜童と阿木燿子がつくったということのなる。


淡谷のり子の歌った「別れのブルース」は本牧チャブ屋の遊女、

メリケンお浜が惚れたと男(船乗り)との悲しい別れでしょう。


ヨコハマメリーさんの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」今回読んだ

「消えた横浜娼婦たち」二つの出来事を初めて知りました。



136ページに幻想の香港、虚栄の横浜

その昔、怪しげな代名詞だった香港。連想させるイメージといえば

「九龍城」「ブランド偽物」「ホンコン風邪」「香港フラワー」「香港シャツ」


実際には「百何ドルの夜景」など見所の多い街なのだが、安かろう

悪かろうでインチキ臭いところいうイメージが先行していた。


その香港と海の玄関としてつながっていた横浜は、黒い噂がうずまく

のに格好な街だった。


昭和20年代から30年代にかけてのミナトと密輸の取りあわせは富士と

月見草のようにしっくりきた。


当時の日本の貧しさは横文字入りの安い商品は歓迎された。

密輸品として特に人気が集まったのはウイスキー、時計、宝石、

金、自動車、麻薬だが終戦直後は食料品が中心だった。


今読んでいる昭和31年の戸川幸夫(直木賞作家)小説「ヨコハマ」

(映画では題名が変わって「第三非常線」でヒットした)


読みかけですがとてもスリルがあり面白い小説ですが実際に起きた

事件を取り上げた横浜を舞台にした物語はいずれブログにかきます。



昭和20年代から30年にかけての港・ヨコハマのダーティーな実際に起きた

殺人事件、人身売買、根岸屋での事件などの出来事を見事に書き上げた


直木賞作家、戸川幸夫著書を読みかけ中ですが一字一句ゆっくり時間を

かけて読んでいます。





横浜市中区の山手町と山下町について

昨日まで書いた「消えた横浜娼婦たちパートー7」まで書きましたが

今回は横浜の地名について少しふれたいとおもいます。

今までと違ってとても横浜市のまじめな話です。


今から155年前の横浜といわれた地区の人口は180人以下と書かれています。

今は元町商店街といえばお洒落な所で観光地にもなっています。

その付近が元村といわれた漁村で人口180人に満たないところでした。


当時の横浜の関内・山下町は樹木の育たない砂浜で50年前の

浦安・江戸川付近の漁村と思ったらよいのでしょう。


ペリー来航で日米修好通商条約締結(5か国を含む)で居留地について

話し合いが持たれました。


米国は東海道筋の神奈川区を中心とする鶴見付近を指定しましたが

参勤交代の道では外国人がいるのは目ざわりになると考え

現在の山手・関内に持って行ったと書かれています。




当時の地図で下の方に突き出ている桟橋があるのが現在の大桟橋付近。

左側の緑色が丘になっている山手町です。


関内は吉田橋を渡るか所に関所を設けて中を居留地関内とし

外を関外として区別。居留地である「港が見える丘公園」


居留地一帯の山を山手町と付けて外国人住宅地とした。

樹木も多く残っていて今でも山手町は神奈川県内の住宅地としては

最高でしょう。


山を下りた本村漁村に近い場所を元町と改名され外国人達の

日常生活に必要な衣服、食料品、家具修理屋、洋食器屋等々が

現在の発展につながった。


山を下りた関内一帯を山の下で山下町と付けて貿易、港、総領事館、

事務所、金融機関、税関、大桟橋などの仕事場と区別したそうです。


山手町居留地には外国人住宅地の出来た順に番地を付けたので

番地はバラバラになっていて今でも丁目はありません。


山から降りた仕事場の「山下町」は丁目、番地があります。

JR山手駅が山裾にありますが山手という街名はありません。

間違って山手駅とつけたとしか考えられませんが本当の理由は不明です。


野毛、黄金町、日ノ出町、曙町、福富町、末広町、若葉町、阪東橋、よこはま橋

長者町、寿町、真金町付近は国内になり町民は誰でも住めました。


今の横浜市の人口は370万人近くに達していますから

大阪市の260万人よりも多く東京に次いでの人口順位になります。


したがって東京の江戸ッ子は三代住んで三代目が

江戸ッ子といわれますが横浜の歴史は150年しかありませんので

横浜に三日間住んでいたらハマッ子と呼んでもおかしくない土地柄です。


港街は出船・入船がつきもので「来る人、拒まず、去る人追わず」の

土地柄でこの気性はいつの間にかわたしにも

横浜スタイルが身についてきました。


「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-7

「消えた横浜娼婦たち」の本を買った理由の一つには

ヨコハマメリー又はハマのメリーといわれた伝説の

娼婦が詳しく書かれていました。


昭和の時代に横浜に数十年住んでいれば一度や二度はメリーさんと

すれ違った方は大勢いると思います。私も家内も見た事があります。


横浜の有名人で映画、舞台、一冊の小説にもなっています。

下記のGMビルは福富町にある飲屋がテナントとしてたくさん入店

しています。


晩年のメリーさんは最上階のフロアーに椅子二つを並べて

そこで夜明かししていたと書かれています。詳しく知るには

「消えた横浜娼婦たち」をアマゾンで購入する事でしょう。


家内と伊勢佐木町付近を散策していた途中、

福富町にあるGMビル前を

通りヨコハマメリーさんを思い出しました。


早速、Facebookに掲載しましたら反応も多くありましたので

横浜の有隣堂で平積されていたので早速購入、

その後忘れていましたが、つい最近読み終わりました。


アマゾンより

消えた横浜娼婦たち 港のマリーの時代を巡って
新品 : ¥ 1,836
3 点の全新品/中古品を見る ¥ 1,600 より

ヨコハマメリー [DVD]

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%82%B3%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC-DVD-%E6%B0%B8%E7%99%BB%E5%85%83%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/B000JJRW5S


上下の写真のメリーさんは晩年の姿で「消えた横浜娼婦たち」の

本の中で写っているメリーさんは中々のお洒落で素敵な写真も

数枚出ていました。





http://blog.goo.ne.jp/hagemarupika/e/e4397cc564a791cc083f951631ae51e5

はげまるのぶら~り日記より


http://ece3.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-8384.html

石井 善一 絵と旅のエッセイ  浜のメリーさんと元次郎との友情物語


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%95%E3%82%93

メリーさんのウィキペィアより生い立ちが書かれていました。

「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-6

「消えた横浜娼婦たち」で根岸屋の世は更けて

119ページについて詳しく書いてブログに貼り付けしておきます。


横浜市中区若葉町に365日、年中無休24時間営業の

エスニックレストランを兼ねた居酒屋でミュージックバンドもいる。


最初はアメリカ人を中心とした進駐軍GI、その後は横浜港に

入港する外国人船員、当時はギリシャ人、イタリアをはじめ

各国船乗り、沖中仕が酒と女を買うために一杯飲んでいた場所です。


その後はヤクザ、愚連隊、公安警察、水商売人など得体のしれない

連中が真夜中まで飲み明かしていた横浜の代表的な飲屋です。


今では貴重な根岸屋の写真、写した方は在日米軍の方

英語の看板にインターナショナル・レストラン・ネギシヤと書かれています。


異国情緒あふれる港町横浜 はげまるぶら~り日記に掲載された根岸屋


(「消えた横浜娼婦たち」より一部貼り付け)

2431日間におよぶ日本占領時代、若い米兵はかなりの無軌道ぶりを

発揮した。目に余る無軌道ぶりだった。


消灯時間近くになると中華街にはヘルメットを被ったMPが

フォードやダッチのジープで乗り付けホイッスルを鳴らし回っていた。


あらゆる人種に対応出来るようにと、車両には必ず

白人と黒人が同乗していた。

当時のアメリカは人種差別の深い溝が存在していた。


行動は人種単位である。しかし伊勢佐木町四丁目の裏通りにある

あらゆる人種を引き寄せた誘蛾灯のような店があった。


それが若葉町にあった「根岸屋」である。


根岸屋はタクシー運転手あがりの坂元という男が社長

女将は絵にかいたような女傑だった。


支配人は片腕のないガラガラ声の強面で、若いころから背が高い男

腕は戦場で失ったのか、ヤクザやられたのか誰にも分らない。


店の中にまぎれこんで美人オシ(声が出ない)の若い女性たちが

外人客探しに数人いたそうですが相手が気に入らなければ

妥協しないと書かれています。

(貼り付け終)


根岸屋から離れた場所でヨコハマメリーが外人相手に客を引いていた

と詳しく書かれていますが次回に取り上げます。


横浜に住んでいて根岸屋を知らない、聞いたことない年代は

私のブログを読んでいても横浜ダーティー社会は理解不可能でしょう。


この店は昭和50年以後も営業していたが、倒産後焼けてしまった。

私は独身時代の映画、黒澤明監督「天国と地獄」を観たあとの

一年後にたまたま行った事があります。印象に残るエスニック居酒屋でした。


横浜の根岸屋について下記のアドレスに興味深い内容が書かれている。


ttp://hamarepo.com/story.php?story_id=2128

伝説の店根岸屋についての解答書。


http://www.tokyo-kurenaidan.com/kurosawa-tengoku3.htm

映画「天国と地獄」黒澤明監督の傑作作品はこれまでに

10回以上観ているでしょう。昭和30年代の横浜全景が白黒映画

で観れますが一部病院の煙突の赤い煙が写しだされた映画です。


http://blog.goo.ne.jp/hagemarupika/e/c616792f9dc41ef455573d47513b6993

異国情緒あふれる港町横浜 はげまるぶら~り日記に

書かれている根岸屋


http://jack-gen.blog.so-net.ne.jp/2012-03-31

酒の肴日記 / 渡辺裕一 に書かれている根岸屋

(貼付け)
根岸家にはその後幾度も通ったが、1980年頃閉店し、

直後に焼失したらしい。


黒澤明の『天国と地獄』で山﨑努が酒場で踊りながら

女性からヤクを受けとるシーンがあるが、あの店が根岸家である。


黒澤が、「日本中でもっともイカガワシイ酒場を見つけてこい」と

号令を出して、白羽の矢が立ったのが根岸家だったらしい。


もとは戦後の進駐軍相手、その後は外国人船員相手、

そして日雇い労働者相手へ、という店の変遷。

濃い歴史をもった店である。


水清くして魚棲まず、酒場はご清潔だけではつまらない。

(貼付け終)


次からは「消えた横浜娼婦たち」の話題のヨコハマメリーさんの本題に入る。







「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-5

「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてからパートー5まで書きました。



昨日に続いて戦後ジャズの歴史は横浜が発祥の地です。

少し触れましたが横浜の桜木町駅から野毛地区になります。

野毛には戦後の昭和20年代からジャズ喫茶「ちぐさ」が営業しています。



(「消えた横浜娼婦たち」ジャズについての貼り付けから抜粋)


戦後の横浜はいわば日本のジャズのメッカのような街で当時の若い

ミュージシャンたちにとって演奏の「目標」「憧れ」の街っだたのです。


野毛という場所柄「ちぐさ」のお客さんは米軍キャンプで演奏する

日本人ミュージシャンと米軍兵士たちでした。


秋吉敏子は自分の勉強のために何度も同じフレーズの

ところに繰り返し繰り返し針を置かせていた。


米軍クラブでの演奏の合間に来てはじっと耳を傾けている

渡辺貞夫、さらに黙々と座っている少年のような日野皓正、


それから松本、馬渡、海老原、清水、小原らCBナインのメンバー、

クレージー・キャッツの石橋エータロー、谷啓、安田伸・・・


伊勢佐木町には進駐軍向けのキャバレーがいくかいり、東京からきた

ミュージシャン連中が腕を磨いたのがヨコハマでした。


私も独身時代の売込営業で接待した馬車道の

キャバレー・オリンピックで飲んだ後に福富町のトルコ風呂で

遊んだことを思い出しました。


昭和30年代までのキャバレー・オリンピックは進駐軍専用でした。

戦前の計画では東京オリンピックをあてこんだ700坪のビルです。


(「消えた横浜娼婦たち」横浜を舞台にした映画について抜粋)


「横浜を舞台にした映画は170本もある」そんな記事を昭和60年代前半の

タウン誌で見つけた。


古くは戦前の「波止場の日本娘」や「本牧夜話」にはじまりアクション映画

「俺は待ってるぜ」「夜霧よ今夜も有難う」「鷲と鷹」「ヨコハマBJブルース」

20年経った現在では、おそらくその数は200本を越えていると思われる。


「消えた横浜娼婦たち」は娼婦の話も詳しく書かれていますが

横浜の表舞台(官製)ではない裏のグレーゾーンの方が興味があり


読んでいて自分の経験談と重複する個所もあり、

今は思い出として孫以外の女房、セガレ、嫁に知られても

今年74歳になる私に焼もちも焼いてくれません。



「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-4

「消えた横浜娼婦たち」を読んでいるうちに深みに入り込みました。


一昨日の続きで横浜はアメリカからのジャズが日本で一番
早く持ち込まれたところです。

横浜では毎年大がかりなジャズ祭りが開催されます。
「YOKOHAMA JAZZ PROMENADE 横浜ジャズプロムナード」
(貼り付け)
横浜市中区をを中心とした地域で、
各種ホールやライブハウス、街頭を会場とし、
プロとアマチュア両方の演奏家、総計1500人以上が参加して、

十数万人の観客を動員する大規模なジャズフェスティバルである。
主催は横浜ジャズ協会をはじめとするボランティアを中心とする

横濱ジャズプロムナード実行委員会。事務局は財団法人 
横浜市芸術文化振興財団が務める。運営にあたっては約300人の
ボランティアスタッフ“横濱ジャズ・クルー”が活躍する。

(貼り付け終)

「横濱JAZZ PROMENADE 2012」私が横浜スタジアムで
アメリカ海軍第七艦隊ブラスバンドチーム演奏の動画です。


   (是非とも第七艦隊マーチングバンド演奏を一度聴いてください
動画を聴きながらブログを読むと雰囲気がわかります。)



黒人ジャズマン、ハンプトン・ホースは米軍基地に在籍していましたが
ヘロイン中毒で横浜の曙町、福富町までヘロイン購入に来ていた。
その時に伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で演奏中出会った
秋吉敏子(ピアニスト)のジャズ演奏に驚いた。

ニューヨークのビ・バップのアーチストにに匹敵するほど
ものすごくうまかったので早速演奏仲間になり腕を上げていく。



ハンプトン・ホースは帰国後麻薬中毒で数年間服役後ジャズの世界に戻る。


若い時の秋吉敏子は横浜のナイトクラブ・ジャズライブで腕を上げていく。

野毛にあったジャズ喫茶「ちぐさ」が一時閉店していましたが再開されました。
当時は米軍キャンプで演奏していたバンドマンをはじめ有名な店でした。

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「消えた横浜娼婦たち」から話題はそれましたが本の中に
「横浜はなにが起きても不思議じゃない所」

昭和30年代の横浜中華街の周りにはいかがわしい外人バー・スナック・
ナイトクラブなど多く点在していて中華街にある加賀町警察の署内で
麻薬取引が行われたと書かれています。


中華街入口にあった外人バーのバイキング                         写真はFacebookのお友達の町田昌弘氏撮影です

そのうちの一軒がイタリアンの老舗「オリジナル・ジョーズ」京浜地区で
最初のイタリアンレストランだった。

日本人には手に入らない300グラムのニューヨークカット・ステーキに
人気が集まっていた。日本人が滅多に寄り付かなかったこの店に
スポーツカーで乗り付ける常連客がいた。

石原慎太郎だった。ときには弟の裕次郎と一諸に分厚い肉を食べていた。
現在もウインドジャーマニー、ニューノルゲ、ノーザンライトなどある。

独身時代の中華街は南京町、またはチャン街などと呼んでいて
路地角にはヤクザの下っ端が麻薬売買、女の世話などの呼び込みをしていた。

関帝廟通りの中華料理「興昌」斜前、安田酒店一軒隣にヤクザの
姉ヶ崎一家(?)事務所があり、せまい道に幹部の乗っている
アメ車、ベンツなどが停めてあり邪魔になっていたが
事務所が火事で全焼して引っ越してしまった。

当時の中華街は観光地と呼ばれていない時代で南京町・チャン街の
呼び名どおり夜は一人歩きは危険な場所でした。

世界中の裏街道を歩いた評論家の大宅壮一が横浜を歩いて
こんな得体の知れない街、得体の知れない国が、
世界中のどこにあるのだろうと思った」
と昭和31年の 
ある雑誌新年号に書いていたという話しは語り草である。



「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-3

「消えた横浜娼婦たち」ー港のマリーの時代を巡ってー




著者 檀原照和さんの書下ろしは横浜に住んでいる


私にとっては知らない出来事、知っていて再確認出来たことなど




興味がつきないビンテージ本になりました。


高校生から横浜に縁があり横浜をこよなく愛している私には


知れば知るほど興味がつきない物語です。




しかしこの本の平ずみで売っている場所は伊勢佐木町の


有隣堂以外には売っていないと思いますがアマゾン経由で買えます。












横浜の闇の部分を取巻く時代背景、時の行政、政治、人間の欲望は


公式(官制)横浜歴史には消されていて記録としては残っていない。




本の中で気になる部分を取り出して書く事にしました。


横浜育ちの浜っ子は伊勢佐木町を「ザキ」とよんだ全盛期には


「浅草六区か、伊勢佐木町か」といわれた時代もありました。




戦前の曙町は「親不孝通り」といわれた小さなバーが立ち並ぶところで


店の移り変わりが激しく「地図をつくる事が出来ない場所」と陰口を言われた。




現在はファッションヘルス、ソープランド、怪しげな雰囲気の店など


新宿歌舞伎町に似た雰囲気があります。




横浜野毛を含めて戦時中、焼夷弾で焼くつくされた横浜は戦後


その場所に米軍飛行場が出来たそうです。




昭和30年飛行場撤退あとの跡地に戦後いち早くトルコ風呂が


登場したのは福富町、末吉町、曙町でした。




敗戦後、進駐軍を迎えるにあたって、日本政府は性の侵略ということを


恐れた。「善良で清純な婦女子を守るために」政府は一億円という




当時としては巨額な資金を投じて進駐軍向けの慰安設備の設置を


決行する。慰安施設の実態は遊郭にほかならない。




公娼、私娼、芸妓を中心に慰安婦集めに全国紙に募集記事まで


掲載された。「とってもいい生活できますよ」とうたい文句で、


1600人が応募したという。




制度についてはいろいろな問題もありGHQは日本警察と相談し


「ここからここまでの中では売春してのかまわない」と地図に




赤い線を引いた。その線で囲まれた場所が赤線地帯で、


堂々と売春行為が天下晴れてできたそうです。




続きはアメリカ進駐軍GIが持ち込んだジャズについてです。


発祥地はヨコハマ・ヨコスカですが面白い話が山ほどあります。


次回を楽しみにしてください。



「消えた横浜娼婦たち」を読み終えてパート-2

横浜の戦前・戦後は下記の年表に書かれていますが説明します。

昭和33年までは日本中に政府公認の遊郭が存在していました。


遊郭があった私が高校3年までの記憶では北品川、溝の口、

武蔵小山、川崎・堀の内、南町、


横浜には港崎町(ヨコハマスタジアム付近)高島町、真金町、

などなど数え切れないほどの当局公認の遊び場が存在していました。

戦後は福富町、曙町、末吉町にトルコ風呂が乱立しだした。


横浜では当局非公認は「チャブ屋」と言う名称で戦前から存在していました。

戦前には「青線」という言い方はありませんので勘違いしては困ります。


戦後アメリカを中心とした各国の連合軍が進駐軍という名称で呼ばれたころ

GIの新兵達がセックス処理の為に地名に赤線を引き青線は非公認と決定。


本牧チャブ屋は戦前からの名称は当局非公認でしたが当局も見て見ない

振りして何十年も営業できていました。


その理由は国際的な横浜港に停泊していた外国人船長、航海士、船員

もろもろのセックス処理は必要悪として存在していました。


当時はコンテナ船ではなく沖仲仕が7~10日間かけて荷降ろし、船積していた

時代なので停泊期間が長かった為に遊び場は必要でした。


厳重に取り締まりすれば一般市民の若い女性達が被害にあうだけです。

腕力のあるポパイやブルータスみたいな向こう見ずのエジキになる事間違いなし。



本牧のチャブ屋は遊郭と違って洋風住宅ホテルとして営業していた。

当時は洋館風のバタ臭い一角を作り出した異国情緒ある雰囲気だそうです。


遊郭の女は借金漬けが多く一人で町中に出たり買物などは出来ないので

その道の用心棒が常に同行していたそうです。


チャブ屋の遊女(ラシャメン)は自分から好きではじめた職業なので

英語が出来たりダンスがプロ並だったり芸達者も多く居たそうです。

世界各国から遊女が集まってきたと書かれています。


谷崎純一郎の「痴人の愛」などあり

本牧チャブ屋は東洋一の楽園といわれた時代です。


淡谷のり子の「別れのブルース」は本牧チャブ屋のホテルの窓から

遊女(メリケンお浜?)が港を見ながら歌った曲でヨコハマ本牧が舞台です。


窓を開ければ 港が見えるメリケン波止場の 灯が見える

夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く

むせぶ心よ はかない恋よ踊るブルースの 切なさよ

腕にいかりの 刺青ほってやくざに強い マドロスの

国言葉は 違っていても恋には弱い すすり泣き

二度と逢えない 心と心踊るブルースの 切なさよ

(思いのこもったとても素敵な詩ですね)


戦前本牧のチャブ屋で超有名な国際人「メリケンお浜」又は

「本牧のクイーン」はとても有名人として詳しく書かれています。


作家の高木建夫、「鞍馬天狗」ど有名な大仏次郎、俳優の坂東妻三郎

などが物見胡散で会ってきたそうです。


話はそれますが洋食のオムレツは本牧チャブ屋の名物料理から

全国的に広がったと書かれています。




「消えた横浜娼婦たち」は横浜関内の有燐堂以外では買えないでしょう。