物事を抽象化し


そしてまた具体化できるスキルは


人が賢く生きて行く時に


大事なスキルだと私は考えています。



例えば


私たちお腹が空いてると


喧嘩になりやすいよね〜チューって


話になったとき


そこから


生物的欲求が満たされない弊害は


生き物にとって多岐に及ぶ


といったん俯瞰的にとらえると


その抽象化されたルールは


別のことに再度具体化できる。


例えば


心に不安を抱えた人に実は足りていないのは


健康的な食事や環境なのかもしれない


などの気付きをもたらす。




多分不登校のお子さんを持った方は


この抽象化と具体化を


知らずのうちに


やっているのではないでしょうか。



うちの子は学校に行けない。


何故だろう。


不登校は最近増えているらしい。


不登校になる子にはこんなことが必要。


家族というものの子供にとっての役割は何か。


うちの家庭はどうなのか。


そもそも子供の心というものは


活力切れになると動けなくなるもの。


うちの子は不登校でもどんなパターンなのか。


心の活力を溜めるために


具体的にうちの子に何をするのが良いのか。


心とはなんだろう。


人の生き方と自分の生き方。



こんな風に


抽象と具体の間をいったりきたり


してるんじゃないだろうか。




この行き来というのは


何度でもできるはずで


また


時に例外の検討や


それが複数パターンのひとつである認識や


思考をロックせず深める知性とか


メンタリティが必要なはずなんだけど


相互の通行が一方通行だったり


凝り固まった思考に陥ってしまったりすると


スキルとなり得たそれらの思考は


急に悪魔の武器邪魔な荷物に変容する。



そもそも思考のスキルというのは


人を幸せにするものでないと


意味は無いはず。


思考に囚われてどんどん不幸せになる人をみると


やるせない気持ちになりますえーん





「今の若い人って傍若無人」



「三つ子の魂百までだからな」



こうやって抽象化された言葉を口にして


それ以上具体的な目の前の事例に


心を傾けようとしなかったり


思考を深めようとしない人って


イラッとするしイラッ



「くもんやらせたのに算数できない」


「学校休ませてどれくらい元気になったら


勉強させていいんですか?」



とか目的を理解せずに具体的成功例ばかり


知りたがる人をみると


ウォイッ!と突っ込みたくなるニヤニヤ




まあね


面倒なことあんまり


考えたくないのかもしれないけどさ


その割に


そういう人って


自分は真理わかってる


間違ってませんみたいな顔すんのもぐもぐ



なんでなん?



人を幸せにするため


誰かの心を理解するため


抽象化や具体化や


ことわざや四字熟語を


使っていきたいよねチュー