日本神道の裏面史である国津神の系譜その11 負け犬たちのパレード | (旧館)豊河怜の開運ネットワークブログ

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本居宣長が、皇国史観に反して、国津神の大國主命様の存在の重要性を明示したことは前回ご説明しました。
とは言え、本居宣長は、天津神の天照大御神様を主軸とする皇国史観を、最後まで揺るがせはしていませんでした。

国津神はあくまで天津神の下位の存在の位置づけです。
あくまで中心軸は、天照大御神様の皇孫たる皇室を中心とした日本を構想していました。


つまり、現状の我々が、考える神道や国体のイメージとあまり違いはありません。

しかし、次の世代から、本居宣長の学説から逸脱する神学を構築する世代が登場してきました。

現在でも、多くの神道系の新興宗教の元祖とも言える国学(神道神学)を構築した男、平田篤胤の登場です。
 
平田 篤胤(ひらた あつたね)1776年-1843年
国学四大人(うし)の中の一人として名前だけは教科書に出てきます。
彼のイデオロギーは相当なもので、あまり知られていませんが、彼の学説は水戸学同様に、明治維新にまでつながっています。


幕末の尊皇攘夷の支柱となり、明治維新を成立させています。

皇室を中心とした皇国史観とは別の面で、日本は神国であるという皇国史観を構築していると言えるでしょう。

 

平田篤胤の神道は、通常、復古神道と言われています。

または平田神道と呼称され、後の神道系新宗教で影響を受けていない教団はまず無い
と言っていいでしょう。

 

つまり、彼の神学は他の国学と違って、それだけ「宗教」という面で人心を掴むような設計になっているということです。
具体的には神秘的であり、もっと言えば「いかがわしい」ということでもあります。

 

民間宗教好みの神学ということは、結局はメジャーな公的イデオロギーでは無いということでもあります。
実は、明治維新が成功して、倒幕がなった後、明治時代には、平田派の神道家は一時期、大きな影響力を持ちました。

その後、神道を国家統制下に置く流れの中、俗にいう「国家神道」の形成に伴い、平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていきました。

 

その代わり、彼の神学は上記したように、民間の新興宗教に流れ、今でも巨大な影響力を保持しています。
実は、現在の神道系で、常識とは別次元の、何か変な話をしていたら、この系統だと思って頂ければまず間違いはありません。


メジャーには認められていないものの、巨大な信仰層を支持母体に、公的地位に対してルサンチマンを抱える存在と言えるでしょう。
日本人の多くの「なんとなく神社に行く」層とは無関係に、神道系の信者数という面でも言えば、実は公的な国家神道(今の表の神道も含みます)よりも信者数は多いでしょう。

 

決してメジャーにはなれませんが、そのような存在です。

そして、メジャーになれないということは、メジャーから脱落した層に好かれるということです。

権力闘争に負けた負け組や、下克上を伺う者たちにとっての精神的支柱や支持基盤になると言うことです。

この記事のテーマの国津神がそのような属性にマッチするということは、おぼろげながら見えてきたのではないでしょうか?