日本神道の裏面史である国津神の系譜その10  (神社の)鏡の中のマリオネット | (旧館)豊河怜の開運ネットワークブログ

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今の日本人の神道や愛国心の原型は、江戸時代の「国学」に起因します。

時は、徳川幕府が支配する江戸時代ですが、本来、武士の統治のために採用した、朱子学(儒教)が、皇国史観を再構築してしまい、皇室の権威を高めてしまったのです。

 

学校の教科書でも、国学者の名前を暗記させられた方も多いかと思います。
その中でも一番有名なのは、本居宣長でしょう。

彼は古事記の優位性を強調しましたが、当然、この「伊勢」と「出雲」の相剋問題にもからんでいます。


とはいえ、彼は国学の(つまり通常の神道の)スタンダードな解釈から、
天照大御神様の系譜である皇室の正統性を当然、主張していました。


死後の世界についても、まだ日本神話の黄泉のイメージ、つまり暗く穢れた世界であり、
死後は善人も悪人もそこに行くという思想です。

 

余談ですが、神道が基本、死後の世界を構築せずに現世の神の支配を強調するのは、ユダヤ教に似ています。
日ユ同祖論は、昔からありますが、あながち間違いではないのかも知れません。

 

しかし、唯物論でない宗教は、当然の論理結末として、神を人間世界よりも優位にする必要が生じます。

※神が人間よりも下位という認識ならばそれは宗教というよりもゴーストバスターズやポケモンのように、駆除や捕獲の対象でしょう。


原始的なシャーマン宗教ならばともかく、国学や神道では、

天照大御神様の皇孫たる皇室が、日本の統治という正統性を持っているという主張をする以上、当然のことながら、神の優位性が必要です。

 

すなわち、
①神は、人間より、現世より、尊い存在である。
②その神の皇孫が、皇室である。
③だから、皇室は日本統治の正統性を持っている。

このような三段論法です。


このため、人間と現世よりも上位に神や神の世界を置かねばならなくなります。
だからどうしたのか?
という話ではありますが、
上記のような論理展開のため、実は、今までの記事で問題にしてきた、日本書紀の国譲りの「顕幽」
の問題がからむと、本居宣長の「皇国史観」に矛盾が生じてしまうのです。

 

要するに、
繰り返しになりますが、皇室を持ち上げるために、天照大御神様を始めとする記紀の神様を現世よりも持ち上げねばなりません。
現実世界よりも、神様の世界の方が重要というブランド設定です。
顕幽で言えば、顕露の世界の人間社会よりも上位に有る神界(幽界)が上位。
実相の本質は、現実社会ではなくて、神様の世界が本質ということですね。

 

西洋哲学で言う、プラトンのイデア論です。
まあ、これは宗教者ならば普通です。
神を崇めるなら、当然、神が実在していない現実社会は仮の影の世界で、神様の世界が本質です。

本居宣長の著作を読むと、ここらへんははっきりと書いてあります。
神の世界が本質で、現世の動向は、全て神の世界で決定している。
現世はそれに従うしかないと。

 

キリスト教の予定説(全知全能の神が一切を全て決定済み)に似ていますが、これは神の力をどんどん割り増していけば当然、古今東西を問わず、宗教者は、そう論理展開せざるを得ません。
近代の復古神道の大本教などは「霊主体従」という表現を使っています。

神の世界が本質で現世は仮であると。

 

西洋哲学ではここらへんは、やはり一神教のこのテーマがあるため、長い間論議になっています。
いやいや、そんな世界は無い。プラトンのイデア論がそもそも正しいのか?
いや、神の世界はある。それと同じで、世界のルール(自然法)はある!
などと言った論議は今でも続いています。

 

見えない世界の実相がある派の、観念論や合理論。それに反対する経験論。
法学の世界でも、黄金率を認める自然法とそれに反対する人定法・・・・。

結局は、現世と違う神の世界(イデアの世界)があるかどうかの問題です。

 

本居宣長の著作では上記したように、やはり神の世界があり、現世はそれに劣後します。
彼の著作の「玉くしげ」では、
顕幽の関係を、人形遣いと人形に例えています。
本質は人形遣いの神の世界であり、現世と人間は、それに操られる人形(マリオネット)であると。

 

以下、「玉くしげ」の下記の訳はこちらのサイトから引用。

 

「さて世中の事はみな、神の御はからひによることなれば、顕事とても、畢竟は幽事の外ならねども、なほ差別あることにて、其差別は譬へば、神は人にて、幽事は、人のはたらくが如く、世中の人は人形にて、顕事は、其人形の首手足など有て、はたらくが如し」

 「さて世の中の事はみな、神の御計らいによるので、顕事といっても、結局は幽事に他ならないのであるが、やはり区別があるもので、その区別はたとえるなら、神は人であり、幽事は、人が働くようなものであり、世間の人は人形であり、顕事は、その人形が首・手足で、動くようなものだ」

 

現世は神が操るマリオネットに過ぎないのだと、神の世界の優位性を力説しています。
しかし、問題は、このロジックにより、本来、皇室=天津神=天照大御神様を称えるべきロジックが、必然的に出雲=国津神=大國主命様(素盞鳴尊様も)も持ち上げねばならなくあるというジレンマが生じてしまうのです。


もちろん、それは日本書紀の例の、国譲りの際の幽を担当させるという契約条項です。
彼は記紀のプロフェッショナルですので、
当然、問題の日本書紀の「顕幽」の箇所については知っています。
問題の移譲契約の文言箇所について、彼の解説を抜粋してみましょう。

 

「此事は、神代に定まりたる旨あり、大国主命、此天下を皇孫尊に避奉り、天神の勅命に帰順したてまつり給へるとき、天照大御神、高皇産霊大神の仰せにて、御約束の事あり、その御約束に、今よりして、世中の顕事は、皇孫尊これを所知看すべし、大国主命は、幽事を所知べしと有て、これ万世不易の御定めなり」

「この事は、神代に定まった内容である。大国主命が、天下を皇孫尊に譲りもうしあげて、天神の勅命に帰順申し上げなさったとき、天照大御神・高皇産霊大神の仰せで、御約束があった。その御約束に、「今から、世の中の顕事(あらはにごと)は、皇孫尊がこれを統治なさるべきである。大国主命は、幽事(かみごと)を御管轄なさるべきである」とあり、これは万世不変の御定めである」

 

例の日本書紀の契約条項ですね。

 

「幽事とは、天下の治乱吉凶、人の禍福など其外にも、すべて何者のすることゝ、あらはにはしれずして、冥に神のなしたまふ御所為をいひ、顕事とは、世人の行ふ事業にして、いはゆる人事なれば、皇孫尊の御上の顕事は、即天下を治めさせ給ふ御政なり」

「幽事とは、天下の治乱吉凶、人の禍福などその他、全て何者がしているのか、明らかには分からず、密かに神がなされる御所業を言い、顕事とは、世間の人が行う事業であり、いわゆる人事であるので、皇孫尊である御主上の顕事は、つまり天下をお治めになる御政治である」

 

顕と幽の支配区分の違いが分かれています。

 

「さてかの大国主命と申すは、出雲の大社の御神にして、はじめに此天下を経営し給ひ、又八百万神たちを帥て、右の御約束のごとく、世中の幽事を掌り行ひ給ふ御神にましませば、天下上下の人の、恐れ敬ひ尊奉し奉らでかなはぬ御神ぞかし」

 「さてその大国主命と申すのは、出雲大社の御神であり、最初に天下を経営なさり、また八百万神たちを率いて、上述の御約束のように、世の中の幽事を司って実行する御神でいらっしゃるので、天下上下の人が、恐れ敬い尊び申し上げなくてはならない御神である。」

 

皇国史観の本居宣長でさえ、幽界支配担当の大国主命様を評価せざるを得ないということです。

ご覧のとおり、現世の顕露のことは皇室が治めたまうというロジックなのですが、
問題は、上記のマリオネットにあるように、現世よりも神の世界の方が尊いという宗教上のロジックです。

これが、論理的に、ジレンマを引き起こしているのがお分かりになりますでしょうか?

本来、国学者の皇国史観では、天照大御神様の方が大国主尊様よりも偉いはずであるべきなのに、
現世(顕露)よりも神界(幽界)のほうが本質的という宗教ロジックのため、大国主命様の方が本質だという論理結末になってしまうのです。

ここに、万世一系の皇室システムの正統性の教義のシステムにバグが生じているのがわかります。