江戸を開き平和をもたらした徳川家康公鎮座400年大祭 | 遠山敦子のブログ

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[ 鎮座400年大祭 ]
 去る4月17日、静岡市の東にあたる久能山東照宮で、家康公の薨去から400年を記念する御例祭が営まれました。いうまでもなく徳川家康公は、それまでの150年にわたる長い戦乱の世を治め、江戸に徳川幕府をひらき、その後260年に及ぶ平和な江戸時代を日本にもたらしたすぐれた統治者です。

 大祭は、徳川家18代当主の徳川恒孝さんやご一族、尾張徳川家、水戸徳川家、紀伊徳川家や松平家などをはじめとし、久能山東照宮に関係の深い神社や寺などの宗教家代表や地元代表などの参列がありました。司祭を衣冠束帯姿の徳川恒孝さんが務められ、地元の頭(かしら)たちによる威勢のよい木やりの先導で、社殿まで晴れやかな行列が続きました。
 本殿や拝殿は最近美しく塗り替えられて国宝となりましたが、もともと日光東照宮のモデルとなったとされる華麗な建物です。大祭はその拝殿で、まず三品立神饌(さんぼんだてしんせん)という山海の珍味が神前に供えられ、ついで、落合偉洲宮司による祝詞奏上、司祭や徳川家の人々の参拝、舞の披露、宮司の一拝、玉串の奉納などが続き、例祭は滞りなく終了しました。四〇〇年という長い歴史を物語る、荘厳で緊張感のある祭典でした。
 鎮座大祭は、百年祭をはじめとし、これまで50年ごとに営まれてきました。近年では大正4年に300年祭、昭和40年に350年祭が行われたと聞き、歴史を感ずる行事です。



[ 家康公と駿府 ] 
 家康公は、幼い時今川義元の人質となり、現在も残る静岡市の臨済寺で過ごされました。その後、桶狭間の戦いで勇将今川義元が信長に敗れたことにより解放されて三河に戻りました。その後も、信長、秀吉の時代が続き、激しい戦乱と残虐に敵を征伐する時代を過ごしながら、「鳴くまで待とうほととぎす」とうたわれるように、忍耐と寛容の精神をもって、将軍となる日に備えた賢明な武将であったと思います。

 家康公は、関ヶ原の戦いで勝利し、1603年には天皇より征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。家康公が、力による武断政治を終焉させ、天下泰平の基礎を築き、人命の尊重、教育の充実を図るという政策をすすめたことは瞠目に価します。その上、外交上の開国主義を貫いた姿勢を知り、私は感銘をうけました。ことに新興国オランダやイギリスと外交関係を結ぶなど、1604年に駿府に移ってから家康公薨去の1616年までの13年間に幕府は朱印状を約200通も出しています。家康公がエリザベス女王を継いだジェームス1世に甲冑を送り、今もその甲冑がロンドン塔にて展示されていることは日本ではあまり知られておりません。
 その家康公は、最後の日々を駿府城で過ごし、薨去後は家康自身の遺志により、まず久能山に移して神葬が行われました。その後日光の東照宮に移されましたが、今もご神廟は東照宮の社殿の奥に位置します。このように家康公と駿河、今の静岡とは強いつながりがあったことを感じます。


[ 私にとっての静岡と富士山 ] 
 私は中学1年生の秋、父の仕事の関係で静岡に転居しました。その時、秋空を背景にくっきりとそびえ立つ富士山を初めて仰ぎ、粛然とした気持ちになり、以後富士山の存在は私の人生にとって大きな指針となりました。中学校は駿府城址にあった戦時中の兵舎で学び、今思えば家康公との関わりを感じます。


 その頃父は静岡鉄道に招かれて、日本平と久能山を結ぶロープウェイを作るべく、自ら険しい屏風谷を踏査して設計し、実現へ必死に努力していたようでしたが、完成したのは今から60年近く前の昭和32年の秋のことでした。今もそのロープウェイは、日本平と久能山の中腹をつないでおり、かつては海岸から1159段の石段を登るしか参道はなかったのですが、新たな別ルートができたのでした。

 日本平からみた富士山の眺望は天下一品で、最近中曽根康弘元総理の揮ごうによる石碑も建てられました。若い頃の私にとって富士山は「あこがれ」の対象であり、東京に出て仕事に励む時代は心の「よりどころ」であり、現在は富士山を見ることで精神の「やすらぎ」を得ております。
そうしたご縁もあり、私は富士山を世界文化遺産にする作業にこれまで10年も関わる(富士山を世界遺産にする国民会議理事長)ことができ、その後も何かと静岡との縁が深い次第です。今回招待をいただいて拝殿に上がる光栄に浴し、大祭の一連の流れを目の当りにすることができました。



[ これからの静岡と地方文化 ]

 静岡では最近、富士山が世界文化遺産になったことを契機として、川勝知事の強いリーダーシップのもと静岡市とも連携し、今は空地になっている東静岡駅前に文化の拠点を創り出し、そこから日本平までの一帯の丘を文化の丘として発展させ、さらに日本平山頂に360度の展望を楽しめる何らかのシンボル施設を作り、久能山東照宮も巻き込みながら、日本平から三保の松原に至る一帯を、静岡の新たな文化地域とするべく、大きな構想が動き始めております。
 また文化庁では、日本全国を見渡して、特色のある地域の伝統文化を取り上げて、新たに日本遺産として指定する動きが始まりました。各地にそうした地域文化の拠点を創ることは、文化の国日本を地域から活性化させ元気づけることになるでしょう。伝統や文化は単に保存するだけではなく、現代に生きる私たちが創造的に活用することで価値が倍加するのだと思います。各地でよき事例が積み重なり、日本文化の底力を引き上げてくれることを期待しています。