したがら散歩道(魚津市) | 越の国随想録

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北陸の歴史・文化・パワースポットを紹介していきます。

蜃気楼で有名な魚津市に北陸新幹線を見下ろせるスポットがあると知り出かけて来ました。




その名は"したがら散歩道"(魚津市石垣新)です。






下の写真で真っすぐに行くと近くに稲盛ファーム
があります。今回はこのT時路を左折します。
























左折して進んで行くと何台か車が停まっている所がしたがら散歩道です。その先が崖になっていて北陸新幹線の高架橋があります。






突き当りで右側から撮影しました。


































下の写真は黒部市街方向になります。
























今撮影している場所の直下がトンネルです。何か振動がして来たので、もしかしたら上り(東京行き)の新幹線かもと思い急いで撮影準備に入りました(・・。)ゞ。

























トンネルを抜けて来た!と思ったら、アッという間に離れて行きました。やはり、時速は260キロ(北陸新幹線の最高時速)だったんですかね!?今回はこの撮影ポイントに向かって来る下り(金沢行き)の新幹線が目的です(^_^)v 果たしてうまく撮影出来るか緊張してきます。












下の写真は高架の右側です。















真ん中に見える山が天神山です。戦国時代にはこの山頂に天神山城
が築かれていました。1582年(天正10年)の魚津城の戦い
の時には、越後(現在の新潟県)から上杉景勝が4千の軍勢を率いて入城しました・・・ですが当時上杉軍1千5百が籠る魚津城を、織田軍が1万5千で囲んでいたためさすがの景勝もどうすることも出来ませんでした。






結局、しばらく滞在した後、上杉の援軍が越後に帰りました(当時の越後は越中(富山)方面だけでなく、信州(長野)方面、上州(群馬)方面からも織田の脅威にさらされていたので、あまり本国の越後を留守に出来なかったからです)。




その上杉軍本体が去った後の6月3日に魚津城はついに陥落します。皮肉なことですが・・・陥落前日の6月2日に京で本能寺の変が起きていました。同じ頃、中国地方の備中高松城(岡山県)は羽柴秀吉の猛攻に未だ耐えていましたから・・・もし、魚津城があと何日か持ちこたえていたら陥落というこはなかったかもしれませんね。




結局織田軍は魚津城を落城させたものの、京で主君信長が死亡したため急きょ織田の武将達は各領国に引き上げました(司令官柴田勝家は越前(福井)北ノ庄城、前田利家は能登七尾城、佐々成政は富山城、佐久間盛政は金沢城)へ退却)。






この戦いのエピソードですが、陥落した時に戦死した上杉の重臣達は死んだ時に身元がわかるように耳の穴に名前を書いた木札を付けたそうです。理由は当時最後まで忠誠を尽くして死んだことを証明することが子孫のためにとても重要視されたからです。その重臣たちの功績により、彼らの子孫は上杉家が越後から米沢へ転封になった後でも重用されたそうです。




自分の親戚のお寺(華王寺)が魚津市双葉町にあります。NHK大河ドラマ『天地人』が放送された時に、そのお寺に魚津城で戦死した上杉軍の供養塔を建立しました。そしたら、従弟の住職が話すには実際魚津城で戦死した上杉軍の子孫の方が訪ねてこられたそうです。その話を聞いた時に、何か本で読んでいる歴史とは違い、この戦いが身近に感じたことを覚えています。






話が脱線しましたが・・・歴史好きですのでご容赦下さい(*^.^*)






現在の天神山周辺には魚津歴史民俗博物館、天神山温泉、新川学びの森天神山交流館等があります。
















その天神山の右側に大きな工場があります。パナソニックデバイス社です。約2年間ここで働いていたので、この周辺の地域には特に思い入れがあります。その頃は未だ高架の工事もし始めたばかりで、道の上に高架を作る時は確か夜間に時間制限を設けて工事していたと記憶しています。それももう6~7年前になるんだと思うと、ここからの眺めも感慨深いものがあります。






しばらく、もの思いにふけっているうちに向こう側のトンネルの中からライトが見え始めました。いよいよ待ちに待った下り新幹線の登場です。その時の模様を撮影したのが下の動画です。









皆さんも、一度このしたがら散歩道にお越しください(^_^)v