神社の鳥居 | 越の国随想録

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北陸の歴史・文化・パワースポットを紹介していきます。

富山県は先週桜の開花宣言がありました。その直後の週末だったので期待していたのですが・・・あいにくお天気があまりよくなくて残念でした。



近所でいつも桜が咲くころに綺麗だなと思う神社があります。











自分はお城や川べりに咲く桜も好きですが、このように神社の境内に咲く桜が美しく感じます。



この神社の前を歩いて撮影して初めて気付いたことがあります。何度もこの前の道を通っていたのですが・・・今日初めて神社の隣に石仏があることに気付いたんです\(゜□゜)/







よく見ると、大分類ではお地蔵さんですが正確には阿弥陀如来が祀られていました。






この神社の前の道は元々立山信仰の道なので、お地蔵さんがあっても不思議ではありません。ですが、普段車に乗っていると見えていると思っても、以外と見落としていることがあるものだなと思いました。今年は難しいのですが、いつかこの立山信仰の道の石仏を調べる時は、実際歩かないと見落とすなと思いました。



ところで、神社と言えば正月の初詣や祭礼で行かれる機会があると思いますが、その時に鳥居や石柱に刻んである文字を見られたことがありますか?この刻んでいる文字を読むとその建立した由来と年代がわかります。



以前、他の地区で神社や地区の石碑や石仏を調査したことがありました。石仏も建立された由来を調べたら、その地区の忘れられた歴史が判明したりと大変興味深いです。ですが、今回は神社の鳥居と石柱を取り上げることにして、石仏についてはいつかこのブログで紹介したいと思います。



先ずは、下の写真をご覧下さい。



①神明神社(上市町神明町)





鳥居の右側には、”奉納御大典記念”とあります。





そして、左側には”大正5年7月”とあります。当初、右側の柱に御大典とあったので、1928年(昭和3年)に行われた昭和天皇の即位の礼 を記念として建立されたのかと理解していました。ですが、大正年間に建立されたことから判断すると、おそらく昭和天皇の先代の大正天皇の即位を記念して建立されたのかなと思います。



最初に昭和天皇かと何故思ったかと言うと、他の地区では圧倒的に神社の境内の鳥居が、昭和天皇の即位を記念して建立されていたからです



テレビが普及したのは、今上天皇(現在の天皇陛下)が1959年(昭和34年)に御成婚された頃というのはよく知られています。実はラジオが国民に普及したのはこの即位の礼の時だそうです。ちなみに、今年がラジオ放送が開始されてから90周年ですね







②村社 日吉社(上市町中江上)



次に紹介する神社はまた別の理由で鳥居が建立されていました。






神社の前の石柱に”皇太子殿下御渡欧記念”とあります。





反対側には”大正11年9月”とあります。






この皇太子というのは、即位前の昭和天皇になります。1921年(大正10年)に半年間昭和天皇が第一次大戦後の欧州を歴訪されたことを記念してこの石柱が建立されました。この訪欧の時の英国王室の歓待が昭和天皇の終生忘れられない思い出となりました。



③熊野神社(上市町熊野町)


次に紹介する神社はまた①と②と別の理由で石柱が建立されていました。








征露紀念”とあります。





その反対側には、”明治36年9月再建”とあります。ということは、征露紀念とは当然、明治時代の日露戦争を指しています。




当初、征露紀念の文字を見た時には日露戦争の勝利を記念して、この石碑が建立されたのだと思いました。ですが・・・反対側の建立時期を見て疑問を持ちました。何故なら、日露戦争後だとすると時期が全然合わないのです( ̄□ ̄;)!!



実は、日露戦争は1904年(明治37年)~1905年(明治38年)に起きていました。だとすると、戦後であれば明治38年以降でないとつじつまがあいません。ですが、明治36年となると戦争前になりますし、再建という文字がありますからその前から建立されていた可能性があります。



ここで思い出されるのが、皆さんもご存じの”正露丸 ”という薬は、この日露戦争の時期は”征露丸”と名前が変わっていました。征露という意味は当然ロシアを征伐するという意味です。戦争の時期だけ”征露丸”で、戦後また名前が元に戻りました。



歴史の本を読むと明治維新以降国民が苦しい時期が3度あったそうです。2度はすぐにわかると思います。昭和の戦争時期とその戦争直後から昭和27年に日本が独立を回復する時期です。そして、もう一つは日清戦争後~日露戦争までの約10年間の期間です。日清戦争後に清との下関条約で日本は遼東半島を割譲したはずでした。ところが・・・すぐにロシアがフランス、ドイツと共に日本に遼東半島の返還を求めます。所謂三国干渉 です。



この三国干渉に対して、日本の国民は大変激怒するわけですが、政府は現状の日本の軍事力ではとてもこの三国を相手に戦争できないと判断して遼東半島を返還します。ところが、そのロシアは直ぐに遼東半島の大連・旅順を清から租借したわけです。これにまた日本の国民は激怒しました。そのため、ロシアに対して軍事力増強(特に海軍力)が必要になったため、国民に増税を課しました。その時の合言葉が”臥薪嘗胆 ”であり、流行語が"征露"だったそうです。



多分、この石柱はそのような時代の雰囲気の中で建立されたのではと推測します。この石柱は以前から征露と書かれているのは知っていました。ですが、日露戦争前ではと思ったのは今日年代まで見たからなんです。(・・。)ゞ



以上三つの建立の理由を紹介しましたが、どのような感想を持たれたでしょうか?普段何気に見ている神社の鳥居や石柱には、今は地元の人に忘れられている意外な当時の時代背景や雰囲気が記されているかもしれません。このブログをご覧になられて、神社の鳥居石柱、あるいは石仏石碑に興味を持っていただけたら、本日紹介して良かったと思います(o^-')b。