ここのところ降り続いた雨がぱたりと止んで、
その夜は珍しく月が雲間から顔を覗かせていた。
薄紫に千切れた雲が未練がましく月影を遮っている。
「明日実家に帰るんだって?」
「そうそう、また直ぐに戻ってきますけれどね」
鼻腔を塞ぐような草いきれと濃紺の夜の空が彼を隈取っている。
手を伸ばせば容易く触れられる程の距離である筈なのに触れられない。
奇妙な口惜しさを紛らわすための空々しい会話に、
言葉を発した本人すら笑ってしまいそうだ。
北国の夏は過ごしやすいが物足りない、と軽く笑う。
そんな彼の喉が曖昧に震えるさままでも月影が照らしてしまう。
些細な挙動一つが胸の奥を刺しては傷をつけてゆく。
隣に並ぶと臓腑が据わるような感覚に陥る。
同時に夥しい数の細胞が沸き立つかのようでもある。
彼は腕を組み続けている、単に何時もの手癖であるような風に。
柔らかな口調とは裏腹に私を拒み続けている証のようにも思えてならないが。
「あ、見てください、あそこに居る」
「ああ本当だ、結構な数が居ますねえ」
漆黒に沈んだ水面に散る淡い光。
蛍。
ともすれば人工の灯りに掻き消されてしまいそうにか細い光。
生い茂った葉の影絵を縫うようにして柔らかく舞ってゆく。
その微かな軌跡に化かされているような気がしてくる、そんな壊れそうな光。
彼らは成虫になれば草露しか口にせず十日程の命だという。
けして触れ得ぬ彼等に惹かれるのもその儚さ故なのだろうか。
腕を解いた彼はきっと蛍を見つめている。
何時の日からか、目を瞑る度に浮かび上がっては私を苛むその瞳で。
彼のその瞳が映すものを、私は知ることは出来ない。
その鼓膜を最も甘く震わせるであろう声の主やその肌に触れることの許される指先の主にも成り得ない、恐らくこの先もずっと。
彼の頭から爪先までを背後から舐めるように視線で辿ってみても、
何一つ手に入れられそうにないこと位気づいていた。
今すぐにその望みを捨てることは、己の肌を爪で裂く程に痛みを伴うことにも気づいていた。
「さて、そろそろ行きましょうかね」
もう少しだけ、などとみっともない言葉を口にしかけて噛み殺した。
こうして手を伸ばせずにいる距離は変わらずにいるのだ。
蛍が煩い程に群れては律動的に瞬いている。
眺めている振りをして横顔を盗み見ることの馬鹿馬鹿しさに自ずから苦笑が零れてしまう。
纏わりついていた雲が途切れて、月は冷たく冴えている。
蒸した草の香も薄れて、どこか清清した別の匂いになりつつある。
この月影が映す彼と、私の胸の内に存在する彼とは果たして一致するものなのだろうか。
幻影を重ねて紡ぎだした、まったく新しい「彼」に縋りついているだけなのだろうか。
幾夜問いかけても得られなかった答は今宵も得られなかった。
幾度逢瀬を重ねてもこの問いへの答は見つからないのかもしれない。
蛍の光が生む感傷のような不確かなものを宝箱に大切に仕舞っているだけのことかもしれない。
今横に居る彼に対して私は何を向けているのがわからなくなりつつあっても、
こうして何も実らない関係は私を磨り減らしてゆくことだけはわかっているつもりだ。
だけれども。
化かされ続けているのも一興なのかもしれない、
などと独りごちるのは夏の夜だからだろうか。
草いきれと葉陰と虫の音と、蛍火とが紡ぐ夏の夜。
更けてもう戻り得ぬ、夏の夜。