(「邪馬台国(その2)」からの続き)

 

 

 私は、これより遡る事180年前の奴国が後漢王朝に朝貢した事を重要視しています。もし邪馬台国が九州に在ったのであれば、奴国周辺が邪馬台国なのではと考えています。

 

 いや、奴国ではなく伊都国ですね。「漢委奴国王」印(金印)の倭の字は委になっています。漢王朝に対し、朝貢国は国名を一字ではなく、二字以上にするのが礼儀です。

 

 委は倭の略字だとか何とか言って、「漢の倭の奴の国王」と読んでいますが、その時代の他の朝貢国の様に、「漢の委奴国王」と読むのが、正しいと思いますよ。

 

 古代中国語の発音を色濃く残していると言われる客家語の発音では、委奴は「イヌゥ」となります。片や、伊都は「イドゥ」となります。

 

 魏志倭人伝の邪馬台国側の国で、代々王が居たと書かれているのは伊都国だけです。委奴国は何処に行ってしまったのか。私は、委奴国=伊都国だと思いますね。

 

 委奴国は、後漢王朝の権威を笠に着て、周辺の小国を手懐け巨大化し、伊都国に進化したのでしょう。後漢王朝が衰退し、消滅すれば、伊都国の権威も失墜します。

 

 ここで、所謂「倭国大乱」が起こったのではないでしょうか。王族で鬼道に通じていた卑弥呼が、後漢王朝の権威に代わり、シャーマン的な統率力で国を纏めたと解釈できます。

 

 卑弥呼の国として邪馬台国が誕生しましたが、実際に統治していたのは伊都国なのではないでしょうか。伊都国は糸島半島から福岡平野一帯を治めていたと思います。

 

 奴国は伊都国の中心地で、西の端に一大卒が置かれ、東の端に不弥と言う地域があったのだと思います。因みに、不弥は宇美町で、奴は那珂川市周辺だと思います。

 

 投馬国は置いといて・・・、だって、どこから船に乗ったんかい・・・、最初から船で行けばいいじゃん。邪馬台国は、まだまだ、その先だと言いたかったのかな・・・。

 

 伊都国(委奴国)の都は志賀島にあったが、邪馬台国へ進化する過程で、もっと内陸に移ったんだと思います。その場所は・・・、如何考えても、「大宰府」が怪しいと思いますね。

 

 大宰府は、大和朝廷になってから、九州の重要拠点となっています。また、邪馬台国の人口は、7万戸と言うので、(5人家族で)35万人程度は居たと思われます。

 

 新たに開拓するよりも、既に開拓され、人の手が入った場所を拠点にする方が簡単ですよね。朽ち果てて、草木に覆われていたとしてもです。

 

 大宰府は大和朝廷にとって西の重要な拠点でした。当然兵力を養わなければなりませんし、住居も必要となると、かなりの規模が必要な筈です。

 

 ところで、志賀島は理想的な場所ですよね。天然の要塞とでも言いましょうか。福岡平野一帯が邪馬台国であったのであればですけどね。

 

 だから、志賀島も卑弥呼の宮殿があった場所として候補地の一つに残したいですね。

 

 ところで、もし貴方が、韓国から大阪に向けて船出したとしたら、九州に上陸し、70km以上歩いた後、また船に乗って大阪に行きますか。直接大阪に行くでしょ。

 

 補給と休息のために、港に停泊する事はあっても、遠く離れた国に行くために、途中の陸地にある小国を巡って、70km以上の陸行をする意味が解りません。

 

 邪馬台国小国ツアーではないのです。魏帝国への朝貢に対する答礼の旅なんです。最短の行路を選ぶ筈ですよね。兎に角、末廬国以降の旅程は矛盾だらけです。

 

 何れにしても、複雑な「大人の事情」が絡み合っていたんだと思いますよ。

 

 畿内説は、この様な子供でも分かる事を無視しています。何故に伊都国に行ったのかです。また、一大卒とは何でしょう。都から遠く離れた場所に置くものなんでしょうか。

 

 畿内で銅鏡などが多く出土している事から、畿内説が有力視されて来ています。あまりにも単純な考え方ですよね。多分、金印も畿内で出て来るかも知れません。

 

 その場合、九州で興り発展した邪馬台国が、東方の国々を傘下に入れ、最終的に都を畿内に移したと考えるべきです。宝物も一緒に持って行ったんでしょう。

 

 その当時の情勢、そこに居た人たちの心情、地勢などを科学的な検証も踏まえて考察すると、自ずと答えが出てくると思います。私の知り得る情報では、こんな結論になりました。

 

 もっと広い角度から、科学的に皆が協力して事に当たれば、答えは出るでしょう。その時、私の説はお釈迦になっているかも知れませんけどね。

 

 そうなっても、真実が明らかになるのであれば、本望とでも言いましょうか。

 

 文章を何度も読むと、行間から伝わってくるものもありますよね。一つ一つの文字にも意味がある筈です。簡単に誤字だとか言って、都合よく変えてしまうのは如何なのかと思います。

 

 と言いつつ、投馬国と邪馬台国の道程を無視した私も同罪であるかも知れませんが、明らかに矛盾しているから排除したのです。「寄り道せず、船で行こうよ」です。

 

 歴史学者の先生方に申し上げます。御自分が極限状態に放り込まれた時、冷静に義務を全う出来ますか。こちらの意思に反して乗り込んでくる相手の言いなりになりますか。

 

 先ず、そこを勉強し直したら如何でしょうか。当時の人々の思いを想像してみてください。

 

 あ、そうそう、ところで、「卑弥呼」は倭人の発音を当時の中国語の発音に置き換えたものです。姫巫女・姫皇女に通じます。この姫と言う漢字なんですけど・・・。

 

 元々、姫と言う漢字はPrincessを意味するものではありません。古の周帝国の国姓が姫なんです。周帝国は兄弟や親戚達を重要な国の公としました。

 

 国と国との婚姻に際し、当時、妃の出自が分かる様に最後に姓を付けるのが習慣だったんです。でも、国姓が姫の国が多くて、後々、姫はPrincessの意味に代わって行った様です。

 

 で、周帝国の実質創始者は姫昌と言います。太公望(呂尚)を軍師に迎え、来る殷王朝討伐に備えます。しかし、姫昌が亡くなり、子の姫発(後の武王)が討伐を成し遂げました。

 

 姫昌は「文王」と諡されますが、そもそも、祖父の古公亶父(太公)の末子である季歴の子で、周を継ぐ身分ではないのです。古公亶父(太公)には、太伯・虞仲と言う息子もいました。

 

 太伯・虞仲は父が姫昌に位を継承したいと思っている事を察し、周を出奔し、殷王朝に属していない南東(揚子江河口域)を平定し、「呉」(三国志の呉ではありません)を建国しました。

 

 太伯は更に、呉を虞仲に任せ、東海へと船出したと言われています。その後、太伯は帰って来る事はなかった様です。日本に辿り着き、倭国を創始したのかも知れません。

 

 弥生時代の始まり(稲の伝来)が、今から3000年前と推定されています。放射性同位体や、稲のDNAの研究により、中国の江南(揚子江河口域)地方からの伝来と分かったのです。

 

 太伯が東海に船出したのが約3000年前です。また、周帝国の二代目の王(姫昌の孫)の代に、倭国から使者が訪れたという記録があります。

 

 太伯の子孫が、親戚筋の周帝国に祝いを述べに来たのかも知れません。古代から中国では、日本の事を「姫氏之国」と呼んでいた様です。

 

 卑弥呼の卑は姫であり、姓を表していたのかも知れません。卑弥呼と敵対している狗奴国の王の名前が「卑弥弓呼」とあります。似ていますよね。

 

 もしかしたら、「親戚か兄弟」なのかも知れませんよ。もしかして、卑弥呼=天照大神、卑弥弓呼=須佐之男命。はたまた、伊弉諾尊は太伯・・・。

 

 なんて、想像に耽る今日この頃です・・・。

 

 

(おわり)

 

 

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