こんばんは。燈子です。
あるご縁があってグループ旅行に参加してきました。目的は神社参拝です。
ここ1年ほどご縁で、去年は伊勢神宮と竹生島弁財天へ参拝機会を得ました。
私は霊感などはありませんので、神社で何か見えるとかそういう体験はしたことがありません。ですが、気は感じます。もちろん、もともと神社自体がきちんと清掃されて手入れされていたり、森林の多い場所にあれば空気が清浄なので厳かに感じやすいということもあるかと思います。ですが、伊勢神宮のように毎日あれだけの参拝者がいても厳かで神々しい場所もあれば、参拝者が多い他の場所では何も厳かさを感じられない神社や仏閣もあります。
今回は、とても気が満ちた神社参拝となりました。
1日目にそう感じたのは石上神社。凛とした空気の凛々しい神社でした。神社の鳥居をくぐる前から「うわぁ!」と皆が声をあげるほどでした。
実はいろいろあって、この神社の参拝は非常に疲れてしまったのです。ホテルに帰って食事中も食後にもふわふわと船酔いのような体感が続いていて、時間とともに治りましたが、帰宅していろいろと調べるうちに、なぜかまた行きたくなるほど気になる神社となりました。
2日目は大神神社。ここは三輪山という山自体が御神体なので、登拝という形となります。
スケールが大きすぎてこの神社は一体なんだろう、、という感じです。
子供や老人には険しい山であり、登れるかどうかというところで、まず試されているような。私は登山がとても苦手で、金華山でもヘバッテしまうぐらい体力がありません。今回の険しい山道に、耐えられるかな、、と旅行前に思いながら迷惑をかけないようにせなばと、ゆっくりでも登ろうと思っていました。
山道は険しく長く天に近い頂上へと続く道です。無言で歩きながら、それは自己との対話となり己と向きあう場となります。とはいえ、私自身は修行が足りないので、雑念が入らないぐらいが精一杯で、何か高尚なことを考えたわけではありません。大きな悩みもない今、人とのご縁や因縁、自分の深い業、それらを肯定するでも否定するでもなく、あるがままに持って生きるしかないということだけはわかりました。
その山道はまるで冥界に下りていく道でもあり、そこで自己にあうようでもあり。その先には自己が死に腐り、再生する中で何か宝物を得てまた新しい自己になるという冥界イナンナの神話を思い出していました。
登頂して参拝する頃には、神様に自己紹介をするのが精一杯で感謝するとかお願い事を祈るとかそんな余裕すらありませんでしたので、なんだかなぁと後で思ったりもしましたが、多分、私が山を登ったり下りたりする間に考えていたことは全部神様に筒抜けだったことでしょう。
今回、一番思ったのは気ということについてです。日本語には気に関する言葉がたくさんあります。
気を使う、気が合う、気疲れ、気の持ちよう、気負い、気配、雰囲気・・・
私は霊感はありませんが、気をキャッチする能力は結構高いようです。人混みなど人が多く空気がよどんだ場所では必ず体調が悪くなります。人の気にも敏感です。場の雰囲気もすぐにわかります。(それを気にしていないふりをしているだけです)
ただ、敏感である分、良い気も悪い気もそのままダイレクトに受けてしまっていました。
それをシャットする方法をコントロールする術を知りませんでしたので、シャットアウトする方法とさらには気をどう操っていくか、ということが私の課題だなぁと帰り道に思いながら帰ってきました。
そして占い師としては、
必要な分を必要な方にのみお分けする
それがやはり自分の占い師としてのスタンスだと改めて思いました。占いが必要ない方には必要ない方がいいのです。そして必要とされる方が多ければ、それはそれでお分けしていくことになります。それは、私自身がどう自分を売ろうとか、そういうことではなく、思召しと思う此の頃です。占い師ということを仕事にする以上は、売上とか集客なども必要だろうなとは思いますが、ここのところ、自分が精力を傾けるのはそういうことではないと思うようになりました。ビジネスとしてはもちろん有料で鑑定します。鑑定場を広げたり、鑑定数も増やせるなら増やしていくとは思います。ただそれは
もっと有名になりたいとか占いで稼ぎたいとかそういう意味で私は占い師をしないということです。
先の自分の志のもとに活動していく所存です。もちろん、それであとから何か結果がついてこれば、とても幸せですね。
普段、一人旅がメインでグループ旅行での団体行動についていけるか、またそれがどうなるのかも気になっていましたが、皆さまの陽気さで安定した雰囲気が終始保たれて全く気疲れしない旅行となりました。深く御礼申し上げます。
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