● 人の可能性を信じる
よくある質問で「次はどの講座を選んだらいいのでしょうか?」と聞かれます。昨日の電話セッションでも聞かれました。あ、電話セッション、楽しかったですよね!
人にもよるんですが、昔は次のステップは「あーだ」「こーだ」言っていて、ブログ記事も「あーだ」「こーだ」書いていたのですが、最近は「なかだ」のコミュニティのメンバーは「自分の人生を自分で決めて歩める」「自らを律して、自ら課題を与えて進んでいける(先日書いた貴族性、G型教育)」「僕は可能性を信じて見守ろう」「メンバーは自らがバカだということに気づけないバカではない。バカだと無意識で宣言していない」と考えているので、昨日の電話セッションでもその旨を伝えて、「自分で調べて自分で判断して欲しい」とお伝えしました。
「あーだーこーだ」いうスタンスも嫌いじゃないし、「この講座がいいよ」と伝えるのは簡単なんですが、僕が「あーだこーだ」言うと、結局、最終的に「中田さんがこう言っていたから」とか、「結果が悪かったからといって人のせい」にしてしまったり、「答えを求める依存的な」マインドが育ってしまいます。
やりたいことをやりなさい、やりたいことを選びなさい、やりたいことを選択しなさい、ただし、自己責任で。は、どこいったって話ですし、前提として、世の中に絶対的な答えはありません。
自ら選ぶことです。
もちろん、「背中を押して欲しい」「最善を選びたい」という気持ちは分かるんですが、そういうものに頼ってしまうと、依存心が芽生えたり、奴隷の人生となってしまうでしょう。
自分はバカだから、選べない、選んでもらったんだ、、、という無意識になってしまいます。
なので、自らが徹底的に考えた上で選択して欲しいと考えていますし、
そういう選択ができる仲間達は勝手に成功していくと確信しています。
必要ならば、材料を渡しますが、最終的には「自分で自分の人生を選択する」という練習をして欲しいんです。
20代にとっては、3万円は安い金額ではないということも分かっています。それは僕も同じでした。昔は6畳一間で極貧生活をしていたことも僕はありましたし、しかし、親や教師に言われたからではなく、自ら考えて、自ら選ぶという練習をして欲しいのです。
自ら考えて、自ら選んでいけば道は開けてきます。レールなんてないのです。
そういう仲間が集まったら、楽しくなるとも思っています^^
と思えるようになったのは、「人の可能性を信じられる」ようになったのです。
ちょっと前の僕は無知とバカを混同していました。無知は死ねばいいと誤解していたのです。バカは自らが脳機能上構造的にバカだということに気づけず傲慢な状態ですから、一度死んだほうがいいのですが、無知ならば、知ればいいということに気づけました。
ですから、あとは、本人の学ぶ意思の問題です。
知る努力を怠らないことです。
僕は無知とバカを混同していたのです。
もっと具体的にいうと、例えば、僕は筋トレに関してはまだまだ無知です。ですから、知る努力を怠りません。自らが無知だという前提で、自らに課題をかし、努力をすることで、確実に日々筋肥大をして、身体がドンドン整っていっているということがあります。
これは一例ですが、自らの無知を知っているということは、無知の知には人としての成長の可能性がある、ということです。
しかし、最近「にんちかがくのきこーぐるーぷ」と言っているバカは、2つの意味でバカだと書きましたが、何故2つの意味でバカなのかと言うと、まず第一に認知科学や気功について自らが無知だということの宣言と、無知のままでいいという宣言をしつつ、上から目線の棚上げが見えたからじゃないかなと。
あれから3日経ったので、コンテクスト含めて正確には思い出せないんですが、確か、そんな感じでした。
忘れちゃう。
誰か、その日に「私は2つのバカはこうだと思います!」とメールして。笑 ただし、「なかだ」では匿名はやめてくださいね。
それはさておき、知る努力を怠っているのです。彼ら、彼女らは自らを棚上げしているという構造です。
自らが無知であるということを棚上げして、知る努力を怠った、そういった人達に成長はないでしょう。
無知ならば、知ればいいし、いつか理解できるときがくるかもしれない。
今は無知でも、知って、正しい努力をすれば、変化が出るわけで、そういう意味では、
「我々は自らの可能性をスコトーマに隠してしまっている。」
と、コーチングの故ルータイスと結論だけ言えば、同じ結論に見えますが、経験値や場数が違いすぎるので同じ結論に至ったとは到底思えませんが、
人の可能性を信じられるようになったと同時に自らの可能性も信じられるようになったという世界の観え方が変った瞬間でした。