僕は無償という考え方が苦手です。
無償が嫌いなのは、多分、無償という言葉のエンペリカル(運用的)な定義上「してあげたぜ」、という上から目線が言葉の中に入っていることが多いし、
多分、人を尊重せず、見下している感覚が入っていることが多いからです。
もちろん、エンペリカルな定義上、誰が、どう使っているかによります。
エンペリカルな定義として、無料はまあどんな世界でも、
フリーミアム戦略や交換という語幹があるし、
必ずデータとか、無料で受け取っていても、情報は取れたり、取られたりしているので、
無料という言葉はしっくりくるので、
よく使いますが、
こちらも無償でやる積もりです。
無償で受ける積もりです。
厳しい言い方かもしれませんが、何様なんだろう?
無償でしか受けられないの間違えな気がしています。
おそらく、僕は1人1宇宙であり、相手を尊重しますし、
お金にしろ、ビジネスにしろ、
価値の交換という感覚があるからだと思いますが、
「無償でしてあげたぜ」という上から目線も苦手ですし、
「無償で与えてもらえる」という新興国の物乞いのような感覚も苦手です。
無償で行う社会貢献にしても、
「無償でしてあげたぜオーラが走っている」とどうも違うなといつも感じてしまいます。
やりたいからやってるわけで、
してあげたぜオーラは鼻に付くので要らないと思います。
自己満足の感覚と、してあげたぜオーラは外から見ていても、大きく違います。
自分自身やヒーラー、気功師側のエフィカシーの低さから、
無償でおこなうことで、自分自身や気功師、ヒーラー側のエゴが満たされるような感覚も苦手です。
すべてをすべて、
気功師が介入する必要もないと僕は思っています。
もちろん、クライアントさんは自分で治っていくわけで、「してあげたぜ、してやったぜ」という考え方だったとしても、相手やクライアントさんが助かったならば、問題はないかもしれません。
でも、例えば、少し想像してみてください!
「してあげたぜ、してやったぜ」を貰い続けたクライアントさんはそこから自立できるでしょうか?
僕は難しいと思います。
新興国の物乞いの方を想像してみてください。
「くれくれ君に洗脳いっちょあがり!」でしょう。
お金を払って、講座を受講しているならば、価値の交換ですから、
必要な知識をお伝えするということならば、理解できます。
でも、「してあげたぜ、してやったぜ」で自立できるでしょうか?
僕は難しいと思います。
何故ならば、オルテガではありませんが、甘やかされてしまうからです。
誰かを甘やかすというのは、彼の欲望になんの制限も加えないこと、自分にはいっさいのことが許されており、なんの義務も課せられていないという印象を彼に与えることである。こうした条件のもとで育った人間は、自己自身の限界を経験したことがない。外部からのいっさいの圧力や他人との衝突のすべてから守られてきたために、そうした人間は、ついには、自分だけが存在していると思い込むようになり、自分以外の者の存在を考慮しない習慣、特にいかなる人間をも自分に優る者とはみなさない習慣がついてしまう。自分よりも優れた人間がいるという感じを彼に実感させうるのは、彼よりも強い人間が、彼に欲望の一つを放棄するように強制し、分を守り控え目にするように義務づけることができた場合だけである。オルテガ・イ・ガゼット 大衆の反逆p80、81
「無償で受けるつもり」とか、「やる積もり」というものが、
有料で、金を介してやることの自信がなくて、
価値の交換が怖いことから、
「無償でやることで、安心感を求めるというエフィカシーの低さから来ている」場合は問題のような気がします。
何故、無償でやる必要があるのか?有償ではいけないのか?
クライアントさんが貧乏ならば、
「10万円稼いでから来て下さい」って、
クライアントが成長するまで待てばいいわけですし、
無償でおこなうことでクライアントの成長を奪うことにもなりかねません。
リラックスして、少し想像力を豊かにして、
長い目で瞑想してみる必要があるかもしれませんね^^
【参考書籍】
大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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