本気でない方は絶対に読まないでください。妄想から抜けるのはそんなに楽ではありません。一生妄想に取り憑かれていればいいので。

※悪い意味での気功遊びから卒業しましょう。深夜1時に周囲に小火をまき散らす馬鹿がいて少し困りました。
変成意識は自分でコントロールするものです。コントロールできないならば、今すぐに気功遊びはやめましょう。
酔っぱらいのようにコントロールできない力は周囲を幸せにするどころか、周囲を不幸にするだけです。また、自分のケツは自分で拭く事です。それが大人の個人レベルの自己責任ということです。
最近妄想の世界から出たいと思って「なかだ」の場の門を叩かれている方が増えています。意図と依頼があれば、僕も力になれます。
とてもいい傾向に思っています。何度も書いていますが地獄への道は善意で舗装されていると「なかだ」の場は考えていますから、出たい方だけ一緒にがんばっていきましょう。
妄想の定義は?というと僕は悪い意味で自己完結した宇宙から出て来ないイメージがあります。現実を観ないともいえるでしょうか。いや、現実というのは現代ではリアルだと思ったものが1人1宇宙であるのですが、出て来ないといえば、ミレニアム問題を解いたポアンカレ予想の数学者ペレルマンのイメージが僕は強いです。ペレルマンのドキュメンタリー映像は何ともいえない悲しさと共に今でも鮮明に残っています。
仏教でいえば、ザックリといえば仮観であり、ダルマ大師からの卒業をして欲しいと書いたら怒られそうですが、小学生や中学生がニンテンドーDSや中二病から卒業するようなものです。大人だったら俺はまだ本気出してないだけ、明日から本気だす!からの卒業でしょうか。
ダルマ大師というのは妄想の世界が気持ちが良くって足が腐ってしまい運良く発見されたからこそ、偉大な人と言われますが、現代的に言えば、隣国でゲームにハマって餓死するゲーマーそのものの風景に似ているのではないでしょうか。
「なかだ」の昔の姿でしたが、妄想の世界はとにかく何でも自己完結できるので気持ちがいいものなのです。他人の話を聞いているようで聞いておらず、天使がフワフワかキラキラしているか過去の記憶の亡霊と戯れるようなイメージです。
僕も妄想と戯れていて気づいたら数年たっていたことが過去ありましたから気持ちはよくわかります。傷ついた人が宗教に頼ることに似ています。それはそれで宗教やスピリチュアルの機能の1つですからいいでしょう。
でも、卒業の時期はいつか来るように思います。
例えば、去年11月にスピリチュアル本を燃やせという記事を書いたのですが、スピリチュアルから抜けてからお越し下さいとお伝えして、言動が可笑しかったのでスピリチュアル本をすべて燃やしましたか?と聞いたらシカトされたということが過去にありました。
これは脱洗脳の初歩中の初歩ですが、スピ本を燃やせず全部抱えていて、言動が可笑しく、私はスピから抜けましたと言われても、説得力がゼロでしょう。おそらく特有の目の臨場感をしているはずです。
鏡を見ればすぐに分かります。
本気で出たいという依頼と意図があれば力になりますが、「なかだ」自身もそんなに暇な人ではありませんし、脱洗脳というのはコストを考えれば数百万円でも無料みたいなものです。
洗脳は簡単、脱洗脳は難しいという非対称性が働きます。中途半端な気持ちで妄想の世界から抜けられるものではありませんし、やはり10年以上かかったという方も多いのです。
いや、天使(ミカエル)ちゃんを食べてあげたこともありましたし、その首にかけたノロイじゃないの?と思うくらい濁ったパワーストーンを浄化してあげたこともありました。
ですから、次のパラダイムに行くというのもいいでしょう。
あの世からこの世に我々は戻ってきて機能を果たしたい人は果たすといいと思うのです。この時は情報空間と物理空間の激しい往復がポイントです。
そのときの風景は錬金術(アルケミア)の風景でいえば、「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」という言葉を情報空間と物理空間の往復と考えれば、風景が観えてくるのでしょうか。
スピリチュアルからの卒業、または妄想から本気で出たい、スクール生のように妄想ではなく、本気で社会に機能を果たしたいと思った方のご依頼はお待ちしております。