理論はお経とはどういうことか?~情報場をどうやって作るのですか?~
受講生からご質問があったのでお答えします。
楽譜はその曲自体ではなく書いた人の世界観があったわけで、お経は瞑想のための道具であったわけで、理論とは指なわけです。
指の指した先があったわけなのですが、多くの人は指の研究者となり、指の指した先を観ようとしません。
クラシックで、音を光で観る先天的な共感覚者であったと言われているモーツアルトの楽譜の研究も楽しいのかもしれませんが、モーツアルトの見せたかった世界があったのではないでしょうか?
現に、モーツアルトの楽曲の中にはお金のために書いた商業用の曲とそうでない曲があり、彼の楽曲を聞けばすぐに分かります。妥協した曲とそうでない曲のイメージです。
見せたかった世界があるわけです。
何がいいたいかというと、理論というお経をこねくり回すことも重要だけれど、釈迦が言ったように指(理論)の先を我々は観ましょう、ということです。
それを実装力とか、実践とか、やるだけとか、体感とか、行動とか、「なかだ」の場では言っています。
気功を実践していたらそんなレベルの低い質問はでないのではないか?というご質問を頂くこともありましたが、「なかだ」の場のメンバーは指の示した先を観て欲しいと考えています。
ここからが本題なのですが、経済学者のマルクスではないのですが「場」を作るためには「命がけの跳躍」が必要です。それを我々は「ゴール設定」と言いました。
過去の場が壊れるわけですから、新しい場、新しい自我、新しい服装、新しい仕事、新しい趣味、新しい世界が見えてくることは当然ですし、そういう意味ではゴール設定とは命がけなのかもしれません^^(ゴールが先で認識が後。)
「命がけの跳躍」をする覚悟がある方だけが「なかだ」の場を訪れればいいのだと考えています。
『ここが情報空間だ、ここで跳べ!』というのは僕が師匠からもらった好きな言葉の1つです。
「ここがロードスだ、ここで跳べ!」イソップ物語のパロディですね。
あなたも今すぐ跳んで下さい。
明日はないので、今すぐ、です。