周防の國名族「杉元宣の悲運」 | 周南市 東郭の世界

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国道315号線の最高地点 河内峠 標高585mを通過しています。
 
徳佐から徳山へ帰る時、此処を通ります。今の周南市と山口市の境目付近です。
 
山口県は、明治以前では周防の國と長門の國の防長二州とされますが、周防國は以外と
 
広く、”明治維新の直前の領域は、防府市、下松市、岩国市、光市、柳井市、周南市、大島
 
郡、玖珂郡、熊毛郡および山口市の大部分(阿東各町を除く)、宇部市の一部(あすとぴ
 
あ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波)にあたる。” と
 
されています。いうなれば、山口県の大部分は、周防の國でありその中心は、今の防府市の
 
国府や国分寺にありました。長門の國の方は、下関や萩・長門、美祢・山陽小野田・阿武郡
 
と云った地域でした。長州は、萩城のある長門の國から出た言葉ですが、世にいう長州には
 
長州藩としての周防の國も包括しています。明治維新が胎動したのは、長州の萩の松下村塾
 
と考えると、どうしても周防の國はおいていかれますが、中世までは、大内氏の興った
 
防府や山口が中心で文化的にも多くの遺産が残っています。今日は、そんなことを思い乍ら
 
315号線を須々万から杉ヶ峠を通って徳山(一ノ井手)の歴史を探ってみたいと思います。
 
                          《2016.8.31 周南市 東郭》
 
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            杉ヶ峠から見る徳山湾の風景です。
 
 
杉ヶ峠は、標高456mだそうですが、今はトンネルを通りますので、撮影地点はもっと
 
低く400m~430mくらいでしょう。今のトンネルの前のトンネルはもっと上に在りました。
 
私の子供の頃は、まだ、その上の峠を越えたもので、その峠の中央付近に清水が流れている
 
水飲み場があったのですが、それを知る人は、もう、ほとんどいないでしょう。
 
 
 
 
 
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山里を通って来て、この徳山の海を見た時は、何年経っても感動します。
 
大島のタンク群は、出光興産の大浦製油所だったのですが、いまは、出光プランテックと
 
かの名前になっています。その、向こうの山の頂上の煙突は、日本精蝋の煙突ですが、
 
今は、使われていないようです。海の向こうの島影は、九州の国東半島です。
 
どうも、信用できませんが、この方向を地図でみると九州しか島はありません。
 
 
 
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手前の山は、採石場で私の生まれるまえからあり、段々削られて来ました。此処には
 
ゴルフ練習場ソピアもあり、下は山陽高速道のトンネルがあります。
 
室町時代には、ここに周防一ノ井手城がありました。名門杉一族の山城です。
 
徳山はもと野上の庄と呼ばれ大内氏の重臣陶氏の家臣野上氏が領していましたが、毛利氏が
 
支配するようになると、杉氏が替わって領主となります。
 
 
 
杉 元相(すぎ もとすけ、大永2年(1522年)天正13126日(1585225日))は、日本の戦国時代の武将。初名は隆相、後に元相。通称は次郎左衛門。大内氏配下で、後に安芸毛利氏に従う。父は杉隆宣。子に杉元宣。周防国の名族杉氏の一門であるが、その正確な系譜は不明。
生涯
1540年(天文9年)の吉田郡山城の戦いでは、大内氏家臣として毛利元就の救援に向かい、吉田の坂・豊島に駐屯し、尼子軍の攻撃に備えた。同年923日の池の内の戦いで、湯原宗綱を粟屋元良らと挟撃し、討ち取った。
1543年(天文12年)57日に父の杉隆宣が討死して、その跡を継いだ。1550年(天文19年)1017日に従五位下に叙せられる。1551年(天文20年)の陶隆房による大内義隆への謀反(大寧寺の変)、また1555年(弘治元年)の厳島の戦い前後での、その動向は不明。1556年(弘治2年)に毛利元就の防長経略の最中、毛利氏に降伏。毛利隆元の偏諱を賜り「元相」と名乗った。また、1569年(永禄12年)の大内輝弘の乱では手勢を率いて富海近くの椿峠に布陣し、大内輝弘の残存兵の逃亡を防ぎ、壊滅させた(大内輝弘の乱)。
元相は、金剛山山麓(現在の徳山動物園前)に館を構え、1574年(天正2年)には一の井手に菩提寺として興元寺を建立する。天正年間に、織田信長によって京を追われた足利義昭の警護のため、備後国鞆に赴いたこともあった。
1585年(天正13年)に病死。享年64。元相・元宣父子の墓所は興元寺にあり、周南市指定文化財になっている。《Wikipedia》
 
 
 
 
 
 
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             杉家屋敷跡<徳山動物園駐車場前>
 

 
杉 元宣(すぎ もとのぶ、生年不詳天正1736日(1589420日))は日本の戦国時代の武将。毛利氏配下。父は杉元相(初め隆相)。妻は児玉元良の娘でのちの清泰院。養子に杉元常(もとつね)。初めは杉長相(ながすけ)と名乗る。通称は小次郎。

生涯

元々は大内氏の家臣であり、初名の「長相」は大内義長から偏諱を受けて名乗ったものと考えられる。のち1556年(弘治2年)の毛利元就による防長経略では山代衆の残党と共に居城の成君寺山城に籠り抵抗したが、やがて毛利氏に降伏。元就の長男・毛利隆元より偏諱を賜り「元宣」と改名する。以後は毛利氏家臣として、父と共に忠勤を励み、父が天正13年(1585年)に病死すると家督相続し、杉氏の当主となる。

しかし、五奉行の一人である児玉元良の12歳の娘と結婚したことで元宣の人生が暗転する。「古老物語」によると、実は妻は幼少の頃から主君である毛利輝元(隆元の子)が目をつけており、元良の娘目当てで元良宅を度々訪問する始末で、婚礼自体が、そうした輝元の態度に快く思わない元良の意向によるものであった。

元宣の妻になっても元良の娘を諦めきれない輝元は家臣の椙山土佐・清兵衛親子、佐世元嘉らに命じて元宣の妻を奪ったのである。

主君とはいえ輝元の悪行に激怒した元宣は天正17年(1589年)、大坂の豊臣秀吉に輝元の悪行を直訴すべく出立した。しかし事の重大さに気付いた小早川隆景は御家の大事のため、元宣を不憫に思いながらも野上庄沖にある大島の船隠で殺害。これにより隆相系杉氏は断絶した。その後、毛利家の船が徳山湾の沖を通ると海が荒れるようになり、広島域中では奇怪な事件が相次いだという。

元宣の供養塔は、杉元相が建立した菩提寺である興元寺内、元相の墓の隣にあり、周南市の文化財に指定されている。また、興元寺には恨みを含んだ武者の幽霊が白馬に乗って辺りを走り回る、という伝説も伝わっており、興元寺では山門を固く閉ざして「不開の門」とし、別に山門を建て、仏前に回向することを続けた。毛利家では、たびたび興元寺に寺領を寄進して、杉氏の供養を長く続けたという。

なお、元宣の元妻は二の丸殿と呼ばれ、萩藩主・毛利秀就と徳山藩主・毛利就隆らを出産した。《Wikipedia》

 
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            興元寺(一ノ井手)
 
主君輝元に妻を奪われた杉元宣の怒りと悲運は、白馬に乗った武者姿の幽霊として、現れま
 
す。この白馬を見た人は数多く、わたしも、武者幽霊の話は、父母から聞きました。父母は
 
ここの人なので、子供の私はそのリアルさに恐れをなし、寺の下の旧道は暗くなると、本当
 
に恐くて通れませんでした。
 
徳山には、いまでも元宣の話を知る人は多く居ると思います。