【花燃ゆ】第28回「泣かない女」みわ(井上真央)さんは素晴らしい! | 周南市 東郭の世界

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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第28回 ”泣かない女” が7月12日放映されました。
 
今回、描かれているのは、元治元年7月19日の「禁門の変」で、久坂玄瑞等長州軍が大敗し
 
朝廷は7月23日幕府に長州征討の勅令を発します。将軍家茂は8月2日第一次長州征伐の令を
 
発し倒幕派への壊滅的打撃を加えようとしますが、長州藩はこれに対し誤って恭順しようと
 
する俗論派が再び台頭します。久坂玄瑞らが負けて朝敵になったことから妻「文」の立場も
 
微妙で俗論党主導の勢力からいじめられます。しかし「文」の真骨頂はこれからで、夫の
 
無念を晴らそうと、萩城の女中となって働くという何とも萩女の哀しくも根性ある物語に
 
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           「文」から「みわ」となった井上真央さん
 
 
なっています。長州藩主 毛利敬親公もこの時が一番苦しかった時と云って間違いなく、
 
最後の切り札となる高杉晋作の出番となります。以下長州征討のWikipedia文です。

723日、朝廷は幕府へ対して長州追討の勅命を発した。幕府は毛利敬親と定広の親子
 
(以下、藩主親子と記す)に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張越前
 
および西国諸藩より征長軍を編成した。動員された藩の数は最終的に35藩、総勢15万人
 
とされる。
 
813日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)より城
 
のある萩ではなく、藩主親子のいる山口へ向かうと決定した。(Wikipedia)

ところで、1864年(文久4年・元治元年)は、長州藩にとって、真に不幸な歳でありまし
 
た。7月19日に禁門の変での大敗北、7月23日に朝廷が幕府に長州藩征討勅許、8月2日には
 
幕府軍による第一次長州征伐開始、11月12日長州藩三家老切腹の命、125日長州藩より
 
総督府へ藩主親子からの謝罪文書が提出などであります。特に蛤御門の変の責任者として、
 
長州藩は国司信濃・益田親施・福原越後の三家老の身柄を徳山藩に預けました。この時、
 
益田は惣持院(そうじいん)に幽閉されました。
 
しかし三家老を奪い取ろうとする動きがあったので、長州藩は1864(元治元)1112日の
 
処刑の予定を変更して、11日夜に国司と益田に自刃を命じました。享年32歳。
 
お墓は萩市須佐町の笠松山の益田家墓所内にあります。
 
 
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 ☆長州藩も三家老・四参謀の切腹を条件に恭順するという屈辱を受けました。
 
 
  
 
  当初支藩の徳山藩にお預けという形にしたのは、どういう経緯からか理由は
 
 
  
  
 
  知りません。益田と国司は徳山藩で、福原は岩国藩で切腹させられ、首実験は広島
 
  の国泰寺で行われました。なんと可哀そうな話しです。徳山は私「東郭」の生地で
 
 
  ありますが、このような繋がりは残酷としかいゝようがありません。徳山が生んだ
 
  
  明治の陸軍大将「児玉源太郎」は日露戦争を勝利に導いた人でありますが、5歳の
 
 
 
  とき、父半九郎が死に家督を継いだ姉婿の児玉次郎彦に養育されますが、源太郎
 
  13歳の時、次郎彦は佐幕派に惨殺されてしまいます。児玉家は家禄を失って困窮
 
 
 
  したとありますから、ここでも、長州藩の保守派と改革派の対立で犠牲になった
 
 
  人が出ているのですね。この児玉次郎彦は興元寺の隠居山墓地に墓がありますが、
 
 
  我が家の墓と同じ場所だった訳で、特に印象が深いのです。
 
 
  ところで、花燃ゆドラマでも四境戦争が始まりますが、テレビで徳山口とありました。
 
  芸州口、石州口、大島口、小倉口というのが四境のことだと思っていましたが、
 
 
  
  
  
 
  境口は、いろいろあるように聞いていますが、徳山口があったかどうかは、まだ
 
  確かめていません。
  
 
  
  
 
  では、また来週お目に掛かりましょう!