
室積湾
室積夜泊夢家翁
室積(むろずみ)夜泊(やはく)家翁(かおう)を夢む 高杉晋作
分明夜半見家翁
分明(ぶんみょう)に夜半 家翁に見(まみ)ゆ
耐喜温顔與舊同
喜びに耐えんや 温顔の 旧(きゅう)と同じきを
一夢醒來心未覺
一夢 (いちむ)醒め来りて 心 未だ 覚めず
尚疑人影在舟中
なお、疑う人影(じんえい)の 舟中(しゅうちゅう)に在るかと
※家翁(かおう)・・・家長のこと、作中では父親の高杉小忠太のこと。
※分明(ぶんみょう)・・・他との区別がはっきりしていること。あきらかなこと。
また、そのさま。
【東郭解譯】

題:室積に泊ったとき、お父さん(小忠太)の夢を見る。
あきらかに、夜半 お父さん(小忠太)と見(まみ)えた、喜びに耐えんのは温顔が優しくて
昔とおなじであったからです。この夢が覚めても、未だ、心は覚めていない。まるで未だ
舟の中にその人影(父親)がいると疑うほどであります。
晋作さんが、光市の室積に泊まったことがあるというのは、誠に興味深いことです。
私事ですが、東郭も光市や室積には縁があってよく知っているからです。
「東行詩集」の前後順から慶応元年の作と思いますが、この時期晋作さんは2回四国に渡って
日柳燕石(くさなぎえんせき)の庇護を受けています。室積に普賢寺をいう有名な寺が
ありますが、そこには高杉晋作と来島又兵衛が二人で泊まったとき、銃弾を撃ち込まれた
痕があるとも伝えられているようです。しかし、この詩は船中泊のようですし、普賢寺の
時のような物騒なとき、上記のような詩作はしなかったでしょう。或いは、「おうの」を
伴って舟便で四国へ渡るときなら、この詩が出来ても不思議ではありません。
兎も角、晋作さんは、この時親に対して不孝をしていると思っていました。夜に夢を見て
それが、優しい父親の姿だったものですから、まだ舟の中に父親が居るのではないか?
と疑うような気分になったのです。晋作さんは、父親の真面目な忠義の武士から見れば
何をしでかすか判らないやんちゃ坊主です。晋作さんは、親にいつも心配をかけていると
思っていました。特に江戸時代の武士は”君に忠義、親に孝行” が教育でしたし人間関係
の模範だったからです。同じような父と子の関係は、杉百合之助と吉田松陰にも現れて
います。この類似性からも長州藩の武士父子の絆は強かったことが判ります。
もっとも、これはその当時の日本の普通の人間関係だったに相違ありません。
この関係は現代でも続いていると思うのですが、皆さんのご家庭はどうでしょうか?
親の義務とか子の義務とかに言葉を置き換えて法令化しています。愛情の関係まで
制度化しなければならなくなった現代社会の在り方についても江戸・明治時代と幸福度と
云う点で考えてみる必要がありそうです。
《2015.6.27 周南市 東郭》