留魂録を読んでみよう(2) | 周南市 東郭の世界

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留魂録(第二節)
 
 
 
 
       留 魂 録
 
 
 
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
 
 
 
十月念五日             二十一回猛士
 
 
 
 
【原文】は、16章ありまして、今回は第二節です。
 
 
 
 
一、七月九日初テ評諚所呼出アリ三奉行出座尋鞠ノ件両條アリ一曰梅田源次
 
長門下向ノ節面會シタル由何ノ密議ヲナセシヤ二曰御所内ニ落文アリ其手
 
跡汝ニ似タリト源次郎其外申立ル者アリ覚アリヤ此二條ノミ夫梅田ハ素ヨリ
 
奸骨アレハ余與ニ志ヲ語ルコトヲ欲セサル所ナリ何ノ密議ヲナサンヤ吾性光
 
明正大ナルコトヲ好ム豈落文ナントノ隠昧ノ事ヲナサンヤ余是ニ於テ六年間
 
幽囚中ノ苦心スル所ヲ陳シ終ニ大原公ノ西下ヲ請ヒ鯖江侯ヲ要スル等ノ事ヲ
 
自首ス鯖江侯ノ事ニ因テ終ニ下獄トハナレリ
 
 
 
 
 
【読み下し文】
 
 
 
 
一、七月九日、初めて評定所呼出しあり、三奉行出座、尋鞠の件
 
  両條あり。一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、何の密議を
 
  なせしや。二に曰く、御所内に落文あり、其の手跡汝に似た
 
  りと、源次郎其の外申立つる者あり。覚ありや。是の二條の
 
  み。夫れ、梅田は素より奸骨あれば、余與に志を語ることを
 
  欲せざる所なり。
 
  何の密議をなさんや。吾が性公明正大なることを好む、豈に
 
  落文なんどの隠昧の事をなさんや。余、是に於て六年間幽囚
 
  中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を
 
  要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはな
 
  れり。
 
 
 

 
【用語解説】・・・《吉田松陰.Comより》
 

三奉行=寺社奉行松平伯耆守宗秀、勘定奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清。

尋鞠=尋問。取調べ。

梅田源次郎=一八一五~五九 名は定朝、号は雲濱、源次郎は通称。若狭(福井県)小浜藩士。幕末の尊攘志士。安政三年一二月来萩、翌年一月迄滞在。安政五年、投獄され翌年獄死。

御所内=京都御所の邸内。

落文=落書。権力者や政治に対する批判や風刺などを匿名で書き記した文書。

奸骨=悪賢い性質。   隠昧の事=隠しごと。

六年間幽囚中=安政元年三月、下田踏海の件により江戸伝馬町の幕獄に繋がれ、一○月長門国萩の野山獄に投じられた。翌年一二月、出獄して杉家幽室に入る。安政五年一二月、老中間部詮勝要撃策が発覚して野山再獄。翌六年五月、東送の命により萩を出発、七月、伝馬町の幕獄に下る。

大原公の西下を請ひ=尊攘派の公卿大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心に有志四、五藩で挙兵しようという陰謀。大原三位西下策。

鯖江侯を要する等の事=志士弾圧の元凶とされる越前鯖江藩主、老中間部詮勝の暗殺計画。


【東郭訳解】
 
安政6年5月25日に萩を出立した吉田松陰先生の囚人籠は、6月25日に長州藩江戸屋敷に
 
到着します。そして文面のとおり7月9日に初めて幕府評定所に呼び出されました。
 
そこで三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡
 
守穆清)の取り調べを受けたのですが、それは2条あり、ひとつは、梅田雲浜が萩に入った
 
とき、なにか密談しなかったか?という事とふたつは、御所内に落とし文があり、雲浜らが
 
松陰先生の筆跡に似ているというが覚えがあるか?ということでした。梅田雲浜は、小浜藩
 
の藩士でしたが、尊王攘夷派で井伊直弼らの幕府体制を倒す目的で水戸藩(水戸斉昭)へ
 
密勅を降下させたりして幕府に捕らえられたました(安政5年9月7日)。梅田雲浜が
 
萩へ来たのは、安政3年12月18日から安政4年1月14日で松下村塾の額面を揮毫しましたが
 
尊王攘夷論で同じ道を歩むような話し合いはしませんでした。松陰先生は梅田雲浜が奸計
 
に長けているところがあり、同じ行動を取るのは先生の信ずる処と違っていたと言って
 
います。梅田雲浜も萩に来たのは、木綿の市場開発が目的だったようで尊王攘夷論も展開
 
しませんでした。松陰先生は、至誠通天で処しますから落とし文などの卑劣な真似など
 
する筈もなく、信念に基づいてしっかり否定します。ついで六年間の幽囚の身の苦労など
 
述べました。次いで、どういう話の展開になったのか大原公を西下(萩)を請うことや
 
越前鯖江藩主間部詮勝の要撃計画まで陳述してしまいます。それで青くなった三奉行は
 
獄に繋ぎました。このところを描いたどの小説もあり得ないことを松陰先生が喋ったと
 
書いていますが、無実か有罪かを吟味する場所で政治論の方へ話を展開してしまったの
 
です。落とし文の件迄で今回の取り調べはもう終わったと思ったのか、吟味役がそう
 
言ったのか知りませんが、所謂”ほっ”としたあとの世間話風な状況で言わでもない事を
 
論じ始めたのです。松陰先生にしてみれば、ありのまゝの自分を曝け出しで相手が
 
分かってくれようが分かってくれまいが自分の信念が正しければそれが至誠だと思って
 
いる人ですから、罪に問われる意識などはなかったのだと思います。死を超越したゾーン
 
状態であったのでしょうか? 結果的に松陰先生は死刑になりますが、この事によって
 
長州藩が明治維新へ向かって行き、新政府の誕生に繋がります。やはり死を超越した
 
松陰先生の意思が働いたのだとしか思えません。 
 
 
                          《2015.4.24 周南市 東郭》