NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第14回 ”さらば青春” が4月5日放映されました。
前回同様、安政5年(1858年)6月19日 幕府は孝明天皇の勅許なく「日米修好通商条約」
を結んだのちの波紋や時代の恐怖を描いています。
吉田寅次郎(松陰)がこの事を知ったのは7月11日でした。「日米修好通商条約」は不平等
条約であり①関税の自主権がない、②領事裁判権を認める、③片務的最恵国待遇などを
幕府(井伊直弼)が結んだ事に激高します。当時の通信手段で幕府の情報がこれほど迅速
且つ正確に松陰のもとに知らされたことも驚きます。勿論、勅許を得ないまゝの締結は、
松陰達の尊王派に取っては許せない事でありました。明治政府は、この不平等を解決する
為に明治年代すべてを使わなければなりませんでした。
その時の日本の情勢は、所謂「安政の大獄」といわれるものですが、「井伊直弼大老職就任
誓詞控」にあるのは、下記のような事情でありました。
松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により、安政5年)4月23日、
直弼は大老に就任した。当初、直弼は勅許なしの条約調印に反対であったが、朝廷の反対も
国体を損わぬようにとの配慮からなされたものである、との認識が幕府の中で台頭しつつあ
った。こうした流れを受け、やむを得ぬ場合の調印を下田奉行の井上清直と目付けの岩瀬忠
震に命じた。こうして、孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日にポーハタン号上でハリ
スとの間に日米修好通商助役が調印される。これが違勅調印であるとして、一橋派から攻撃
を受ける。家定の継嗣問題では同月25日に徳川慶福を後継に決定し、慶福は名を徳川家茂と
改めて同年12月1日、征夷大将軍(第14代)の宣下を受けた。
直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は戊午の蜜勅を水戸藩に
直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は戊午の蜜勅を水戸藩に
下し、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかけた。また、若手の公卿たちが幕府
に通じているといったことを拠り所に関白・鷹司政通を突き上げ、安政3年8月8日、辞任に
追い込んだ。
前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は態度を硬化させる。長野主膳からの報告によ
前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は態度を硬化させる。長野主膳からの報告によ
り、直弼は水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、京都所司代酒井忠義に捕縛させ、安政の
大獄の端緒を開いた。直弼はまた無勅許調印の責任を自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着
せて両名を閣外に逐いやった。代わって大田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用
し、尊王攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。さ
らに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘
発を命じ、多数の志士(橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など)や公卿・皇族らを粛清し
た。また、一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを蟄居させ、水野忠徳らの有能な吏僚
らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周らを免職にした。
安政の大獄とは、1858年6月に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、水戸藩主・徳川斉昭は
越前藩主・松平慶永と尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を
詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除さ
れたのが原因で、激怒した直弼は強権を持って国内の反対勢力の粛清ことであります。
それは、幕閣・幕臣を問わず尊王攘夷派全てを排撃する執拗さで、梅田雲浜らも槍玉に
挙って捕縛されますが、吉田松陰も萩で幽囚中に雲浜の訪問を受け、疑いを掛けられた
のです。第14回ドラマでも、吉田松陰の激怒と具体的になにも出来ない焦燥と信念を貫こう
として文はじめ家族との葛藤を描いています。”松陰は、江戸の井伊直弼暗殺は水戸藩と
薩摩藩に任せ、京都にある間部詮勝と京都所司代を長州藩が成敗すべきと考えた。行きつく
ところは、水戸・薩摩・長州3藩による倒幕・皇威回復の大事業である《久坂玄瑞-立石優
著》”と書いていますが、上申書も敬親公まで届かず、その内容も藩に武器弾薬の提供を
求めるものであっては、周布政之助といえども時期尚早ということで拒絶いたします。
ドラマで、この交渉役を吉田稔麿が引き受けていますが、よく演じていたと思います。
松陰は、それならば同志を募って老中間部詮勝を成敗する倒幕運動をしようとします。
松陰は、「時機到来」と読んだことと、周布政之助らの藩重役が時期尚早とした「ズレ」が
がありました。村塾の同志は16人は即座に血判書を押しますが、松陰の発案で敬親公が
江戸へ学びにやらせた塾生の正亮、玄瑞、晋作、飯田、尾寺らが「先生ともあろう人が
なんと無謀な・・・」ということで反対です。萩の田舎と江戸藩邸の久坂や高杉らとの
時局認識に「ズレ」があったことが察せられます。長州藩としても何をしでかすか判らない
松陰は大事な宝です。再び野山獄へ繋ぐことになるのです。これからは、花燃ゆ次週15回
「幕府の脅威」で描かれていると思います。

ところで、長府功山寺の横にある長府博物館萬骨塔をご存じでしょうか?
「東郭」は、当ブログ「長州歴史文化散歩」2014.11.6付けで詳しく紹介しています。
桂弥一翁が作ったものですが、、「終生轗軻不遇流離落魄ノ極涙ヲ飲ンデ黄泉ノ客
トナリ英霊長ヘニ慰ムルモノナキ有リ所謂一將巧成リ萬骨枯ルノ歎ナキヲ得ズ眞ニ同情ニ
堪ヘザルナリ 余年來此ノ事ヲ懐フテ息マズ茲ニ此ノ塔ヲ建てゝ無名ノ士ノ幽魂ヲ祀リ
永久ニ吾等子孫ト與ニ國民的感謝ノ意ヲ表セムトス」と主旨が書いてあります。
明治維新を経てみると、その犠牲となられた英霊に官軍・賊軍などの差はありはしない、
身分や貴賤に関係なく亡くなられた方への感謝を奉げるべきとする慰霊塔です。
ですから、長州藩ばかりでなく、會津藩士や水戸藩士も祀られています。
それから、明治天皇の御製もあります。
今日は、その中から「梅田雲浜」、「橋本左内」のお墓写真を紹介します。
