言論の正義~Justice de la parole~

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「人格構造的判断の基準化理論Ⅰ(序説)」   大野裕之(明治大学法学学士)

 

人格構造的判断の基準化理論Ⅰ(序説)」   大野裕之(明治大学法学学士)

 

はしがき 

 我々は対象の評価に果敢に挑むが何ひとつ正確な評価はないと思う。その根拠が人間の宿命であるならば人間の「評価判断」とは宿命であると思う。ある人間は宿命として自己を評価してしまった。その人間はその評価に評価されたと思う。よって評価とは主体性判断が可能な人格と考えることは可能であると思う。よって評価とは人格的且つ評価的な「二重の顔」として規範性と自動性とがあると思う。よって主観とは評価の規範性であり客観とは人格の自動性であると思う。法人格とは客観であり人格の自動性であり、主観主義とは評価の規範性を重視する立場であると思う。例えば甲は殺人の故意で死体に発砲した場合において甲に殺人罪を認める立場を主観主義と考えたときにおいては主観主義的判断とは甲の危険性の評価としての行為規範性を重視した判断であるとは言えると思うのである。ところがこの事例において客観主義の立場に立つならば甲の人格の自動性である構造的人格評価の判断としての認識評価は排除されるべきであり甲の認識評価の「対象」である「死体を殺した」という「ことば」は刑法199条の成文の「ことば」と合致しないので甲の認識評価は有価値と判断されるべきであると思う。よって客観主義とは原因事実と評価事実の錯覚がある場合には認識評価を有価値と判断するべきであるという規範的評価を重視する立場と言えると思う。思えば木村亀二博士の「刑法総論」を読み始めたのが2011年6月頃であったと思う。途中紆余曲折しながらも刑法総論を学び続け最終的に団藤重光博士の「刑法綱要総論」にたどり着いたと思う。基本はフランスの社会学者であるデュルケムの「社会学的方法の基準」を左右の銘として最終的にフランスの社会学者であるフランソワ=デュべ博士の「経験の社会学」に辿り着いたことは「偶然の産物」であったと思う。デュルケム博士に反論するつもりは毛頭ないが第4編で記述するように国民は社会の基準に拘束される理由はないと思う。基準とはミクロ構造である人格の主体的判断によって基準化されると思うと言う結論に至ったのである。ここにフランスの学問の体系を書籍から学ばせて頂いた澤登俊雄博士等に謝意を示すと共に学問的方向性を決定づけた明治大学の個田中館輝橘名誉教授に謝意を示したいと思う。未だ本論は未完であるがここに「人格構造的判断の基準化理論」の序説の骨格が完成したので「Blogger」で上梓する次第である。内容的には浅薄であるが骨格は整理されていると思う。最後に私はミクロとマクロの苦熱が付かぬほどの「浅学非才」の単なる一般人であるがこの「人格構造的判断の基準化理論Ⅰ(序説)」の内容の充実と本格的に進めるべきである「人格構造的判断の基準化理論Ⅱ(本説)」も完成できたら本望であると思う。社会学を専門に研究されている方々から見れば「子供の作文」程度であると思う。

 

序論

客観の一般概念と本論の区分ー最も一般的な意味での客観とは、人格の自動性である構造的人格評価の判断としての認識評価を排除した理由で主観からの規範的命令を排除する思想ないし態度である。

 

この定義から次の帰結が生じる。

Ⅰ客観が制度的かつ人格的な現実として二重の顔を持つところに、客観主義の生産性と連続性とが在る。

Ⅱこのことが構造と主体との敵対関係を顕にして評価に対する人格の反作用を引き起こす。

Ⅲ構造の破壊と主体規範の土台とは場所と時とに応じて変化するから、客観との闘いはその変化に応じて方法や目的を変えねばならず、そこから客観主義に対する人格の反作用の変遷が生じる。

 

そしてこれ(ⅠⅡⅢ)に対応して次のような考察対象が設定される。

 

Ⅰ客観主義とその諸原因

Ⅱ客観主義に対する人格の反作用

Ⅲ客観主義に対する人格の反作用の変遷

 

序説Index

序説

Ⅰ客観主義とその諸原因

第1編 憲法学から考察する客観主義の構造

第1章 ミクロ構造の意義 

第2章 ミクロ構造における放任主義

第3章 ミクロ構造における決断主義

第4章 ミクロ構造における意思主義

Ⅱ客観主義に対する人格の反作用

第2編 ミクロ構造から考察する人格主義の理念

第1章 人格主義の意義

第2章 人格主義における社会概念の制度化理論

第3章 人格主義における社会概念の規整化理論

第4章 人格主義における社会概念のベクトル化理論

Ⅲ客観主義に対する人格の反作用の変遷

第3編 人格構造から考察する判断理論の許容

第1章 判断理論の意義 

第2章 判断理論における妥当化理論 

第3章 判断理論における効力化理論

第4章 判断理論における共通化理論 

本説の方向性

第4編 客観主義を基調としたミクロ構造の基準化理論 

 

Ⅰ客観主義とその諸原因

第1編 憲法学から考察する客観主義の構造

第1章 ミクロ構造の意義 

 客観主義とは原因事実と評価事実の錯覚がある場合には認識評価を有価値と判断するべきであるという規範的評価を重視する立場であることは「はしがき」で記述したとおりである。まず客観主義は二重の顔の一側面として「制度的生産性」を喚起させるのであると思う。よって客観主義的経済とは制度的生産性を維持するために「計画経済」を志向したと思う。そこにおいては労働力は単に制度的生産性を担保する「手段」と解されたと思う。近代日本経済は戦後の「朝鮮特需」を前後して高度経済成長の「夜明け」を迎えて労働者が手段である「労働力」さえ労務の提供として「制度としての企業」に提供するだけで「賃金」という労働の対価が労働者に提供される「制度と手段の統合」が「歯車」として「齟齬」を生じさせなかなったことが日本経済の牽引力であったことは否めないと思う。行政権力は制度と「癒着」という形式において国家主導の「計画経済」に突入したと考えるべきであると思う。1960年代の「ときの」内閣総理大臣である池田勇人の「所得倍増計画」であり1970年代における「ときの」の内閣総理大臣である田中角榮の「日本列島改造論」であると思う。日本経済が「右肩上がり」の成長力を維持できたのは私見が論じた「制度と手段の統合」であったと考えるべきであると思う。よって日本における「客観主義」は刑法学よりも「実体経済学」において「マクロ的政策」として威力を発揮したことは否定できないと思う。私見に過ぎないが「法学」よりも経済学において「アメリカの影響力」が大きかったのではないかと思う。そこで齟齬が生じたのがアメリカのGHQ主導で改正された「現行日本憲法典」において規定された「幸福追求権」が「経済的幸福追求権」と把握された「きらい」である。その経済的幸福追求権と「制度と手段の統合」の影において「負の所産」を負担させれたのが所謂「熊本水俣病」や「四日市ぜんそく」や「イタイイタイ病」に代表される「制度としての企業」が直接的ないし間接的原因とされる「公害病」であったと思う。私は公害病と言えば「因果関係の立証の困難性」を認めざるを得ないと思う。これが第1の問題であると思う。次に客観主義の二重の顔のもう片方の側面として「人格的連続性」を認めるべきであると思う。人間の人格とは「人間の所産」として「日本国」で肯定された「構造」であると思う。その構造は「複雑」であり一方において「権利」として表現され他方において「自由」として把握されるべきであると思う。日本においては人格と権利の結びつきは意外と強く「人格権」と把握されてきたと思う。ところが「人格の自由」とは私が記憶している限りにおいて観念できない自由である。一応ここで「人格の自由」を仮として定義するならば「憲法秩序によって保護された国民の主体的判断における自由」としておくことにする。私は憲法13条の「幸福追求権」はこのような形で把持されるべきであると思う。私は幸福追求とは何かについて毎度悩まされるのであるがそれは幸福追求の「目的」が漠然としているためであると思う。

第2章 ミクロ構造における放任主義

 客観主義を基本としたミクロ的構造においては目的とは実現される対象であるべきであると思う。よってミクロ的構造における目的の評価に関しては憲法秩序によって保護された国民の主体的判断における自由な判断に「放任」されるべきであると思う。すなわちミクロ的構造の目的評価に対する「国民統制」を強化するべきであると思うのである。次に「ミクロ構造」において目的評価の「基準」をいかに設定するべきであろうかが問題となる。構造の理念は多岐多様でありその構造の「理念」に従って目的評価の基準は「類型化」されるべきであると思う。そして「定型化」へ移行してその定型化した目的評価基準を「実践」するべきであると思う。

第3章 ミクロ構造における決断主義

 ミクロ的構造において定型化された目的評価基準を「効率的」に行うには、その「手段」の認識が必要であり、そのためにも手段の「有効性」を問う必要性が高いと思う。そこでミクロ構造においては目的評価基準の「効果測定」すなわち事前にミクロ構造における目的評価基準の「モデル定型」を作成する必要があると思う。いわゆる「事業計画」であると思う。事業計画の「選定」に当たっては、選定において恣意性を作用させないために「管理計画」を実施するべきであると思う。次に「指導計画」を行うべきであり、その指導計画が公平に実施されることを目的として「実施計画」を行うべきであると思う。最終的に「実施計画」に基づいて「現地調査」を行うべきであると思う。また現地調査においては現地の実体と調査の結果の齟齬を防ぐために「現地調査報告書」を策定が必要であると思う。その報告書に基づいて「分析」作業を経た後において分析に基づいて「解析作業」を行うべきであろうと私は思う。最終的に解析作業が終了した段階において「実施計画」をはじめて考えることになると思う。実施計画においても「危険」を分散する必要があるのであり「実施計画」をまず製図化すなわち「実施計画書」までに整えた後において「規範的整序」を終えた後において「事前方針」を策定し、それに基づく「事前方針策定書」を作成しその策定書に従った「ガイドライン」に理念を添えて自由判断認識として事前方針を最終的に決断するべきである

第4章 ミクロ構造における意思主義

 次に具体的力学を実行するべきかの「実行計画」を策定し「振れ」を防ぐために「実行計画書」まで策定するべきであろうと思う。「最終段階」において実行計画書に基づいて「準備報告」を行い確証を得るための「準備報告書」を策定するべきであろうと思う。その「準備報告書」を基礎として「予備報告」を行ない決断が正義にかなっているかを確認した後において「予備報告書」を策定した報告者の共同の署名捺印を必要と考えることが「責任の所在」を明確にすると思う。責任が明確になった段階で実行事前段階として「意思確認」を行ない実行後における「実行意思の有無」に関する争いを防ぐために「意思確認書」を策定し複写の上において実行者各自に配布することが必要と思う。そして終局的にミクロ構造における「実行ー力学行使ー」が可能となると思う。

Ⅱ客観主義に対する人格の反作用

第2編 ミクロ構造から考察する人格主義の理念

第1章 人格主義の意義

 客観主義を基本としたマクロ的構造においては目的の方向性は「主体的判断」によって決定されるべきである。その趣旨は人格の「維持」であると思う。よって人格は第1に「厳格」であるべきであると思う。その根拠は人格の連続性の維持に求めるべきであるからである。それによって主体の一定性が「確保」されると思う。それによって人格という構造は「秩序」を保存出来ると思う。その秩序の保存が社会という概念の「固定」に繋がると思う。

第2章 人格主義における社会概念の制度化理論

 社会概念とは構造の基礎であり社会概念が崩壊した場合には構造自体が維持できないと思う。よって構造を「担保」する機能を有するのが社会概念である。よって社会概念は価値であり社会は権利化すると思う。ここに「社会権」が発生するのであると思う。よって客観主義の「申し子」が社会権とは言えると思う。よって客観主義における構造の背後には潜在的に社会権が潜むのであり当然に客観主義に対する「人格の反作用」が生じることになると思う。よって社会権と人格は拮抗するのであり憲法秩序はそれー社会権ーを制度として規整する必要が生じると思う。では憲法秩序はどのように社会権と人格の拮抗を規整するかが重要な問題となるのである。その規整手段が「均衡と抑制」すなわち「三権分立」という「制度規整」である。

第3章 人格主義における社会概念の規整化理論

 よって制度規整を「保護」する必要があると思う。制度の保護には最低でも制度を「保証」する必要があると思う。保証した後において制度規整を「利用」できる必要があるのである。制度規整を利用化するには「環境」が必要となると思う。環境とは空間を認識したところの「評価」であり環境は解釈される必要があると思う。その解釈によって環境の定義が可能となると思う。その定義に基づいて環境は対象となると思う。対象と化した環境において初めて環境は価値「判断」から解放されるのであると思う。価値判断から解放された環境においては「要素」は一切に含まれないことになるのである。

第4章 人格主義における社会概念のベクトル化理論

 よって社会は概念から変貌し「無限(∞)」という「大きさ」という「ことば」を獲得することになると思う。「ことば」には一定の「規則」が必要と考えるべきであると思う。また『ことば』は「不変」が必要であると思う。その不変を与えれた『ことば』は意味となると思う。意味が付与された『ことば』は理解を獲得することになると思う。理解を獲得した『ことば』は「信用」を得ることになると思う。信用とは一定の「裏打ち」としての根拠が必要なことは言うまでもないと思う。よって根拠は認識される必要があると思う。認識された根拠は証明される必要があるのである。証明が済んだ根拠は一般的に肯定されたという「過去」を獲得するのであると思う。過去を獲得した根拠は「結果」を求めることになると思う。結果とは「所産」であると考えるべきである。よって所産は時間を伴う必要があるのである。時間を伴った所産は「空間」を有し空間を有した所産は一定の「」となるのである。量化した所産は質を伴うと考えるべきである。質とはその対象に帰属する性質であると思う。性質とは一定の「位置」であり一定の位置を有した性質は「安定」しており安定した性質は「向き」を有すると考えるべきであると思う。

参考文献:川島武宜「民法総則」

Ⅲ客観主義に対する人格の反作用の変遷

第3編 人格構造から考察する判断理論の許容

第1章 判断理論の意義 

 客観主義を基本としたミクロ的構造においては目的とは人格の主体的判断のために利用されるべきであると思う。人格の主体的「判断」とは「力学」であり

主体はその力学を応用するべきであり応用するためには私は一定の原則が必要であると思う。

第2章 判断理論における妥当化理論

原則を得た判断は「例外」を伴うのであり、その例外は厳格に利用されるべきである。その判断の例外は具体的「妥当」を要求するのであり妥当な判断だからこそ許容されると思う。その許容された判断には「通力」が必要であると思う。

第3章 判断理論における効力化理論

 その通力が一般化した判断となった時に「理(ことわり)」となり「一般通用性」としての「効力」が発生すると思う。その理としての効力が効果を発生させるのであると思う。その効果が安全を維持すると考えるべきであると思う。

第4章 判断理論における共通化理論

 判断の安全とは導かれるものではなく導くものー共通ーでありそこに能動を観念できると思うのである。その能動という「可能」とは「動作」であると思う。可能が動作となった時に「動き」という「ことば」が「移動」するのであり移動によって「変化」すると思う。変化とは兆しであり予見であると思う。予見とは何かを意味する前触れであり接触することによって感覚を認識すると思う。感覚の認識によって共通を観念することが可能であると思う。

第4編 客観主義を基調としたミクロ構造の基準化理論 

 客観主義を基本としたミクロ構造においては目的は終局的には具体的妥当性を判断する基準であると思う。その基準とは「明確」であるべきである。基準を明確にするには「規定」することである。基準を規定することによって「制定」されたと判断可能であると思う。基準が制定されたことによって手段としての「方法」が確立するのであると思う。私が最後まで信じたのがフランスの社会学者であるエミール=デュルケムの「社会学的方法の基準」であった。私の体系で行けば第25編「基準における方法化論」の手段として①基準とは方法である。②方法であるから基準は手段であり③手段であるから納得させる「手段」であり④基準とは方法であると論じたと思う。すなわち「基準とは方法である」とは「同語反復」であると私は思う。すなわち基準とは定義がないことだと思う。よってデュルケムの著作の題目である「社会学的方法の『基準』」も存在しないと個人的に思う。我々は定義のない「基準」それは刑法の「構成要件」もそうだと思うが社会の基準に拘束される理由はないと思う。基準とはミクロ構造である人格の主体的判断によって基準化されると思う。