言論の正義~Justice de la parole~ -2ページ目

言論の正義~Justice de la parole~

株式会社中央損保鑑定で損害保険登録鑑定人をやっていました。無料でコンサルタントができるので保険事故が起きたら連絡下さい。メールアドレスはrightful.japan@gmail.comです。宜しくどうぞ。

「刑罰の目的に関する若干の考察的視点」 大野裕之(明治大学学士;1998) 「刑罰の目的に関する若干の考察的視点」 大野裕之(明治大学学士;1998) §1 刑罰の目的  刑事人格の本質は「刑罰を受容するところの能力」であり、それが規範理性すなわち「前法律的規範」であると思う。我々はこの前法律的規範が「主体の正常性」を維持する機能を有することを看過するべきではないのである。主体の正常性を認めることが可能な範囲において人間はその「理性的判断」を行なうことが可能であると言うことはできると思う。では人間の「理性の本質」に関して我々はどこにその根拠を見出すべきであろうか。人間の理性が「人間の秩序」を維持するのであり、それを古(いにしえ)の人間は「理知」に求めたと思う。ここに理知とはギリシャのポリス社会においては「自己に問い自己に質した」結果としての「自己犠牲」に求めたと思う。ここで理知とは何か(?)を論じるべきではなく、人間はその理知によって「何を為すべきか(?)」が問われると思う。それは「倫理」であろうか「善」であろうか。我々はひとまず人間の態度とこれら「道徳観」を切り離して人間の態度自体を「客観的に考察するべき」であると思う。人間の態度とはその欲求を自己の「規範」で制御できるところの「規範主体」であると考える必要があるのである。人間の規範的主体は「抵抗ー法という意味でー」を受け入れ、それー法ーと合致した方向に人間の態度を顕わにする必要があると思う。それが人間が考えるところの「法意識」とか「法感情」と言われる部分なのであると思う。人間とは素朴にその法意識を「主体的に」実存に受容する必要があるのであると思う。そこに顕わになるのが人間としての「法的責任」だと思う。その法的責任とは他人に負った「責任」ではなく、自己のために「自己で負った責任」なのであると思う。これを私は「自己負担責任」と呼称することにする。ではこの自己負担責任を軽減ないし免除する「原由」とは神への「贖罪」であろうかそれとも「刑罰の受容」であろうか。我々は「自省する」ことに対しては「善意」であり、まず「社会的呵責」として人間は行った「罪」に対してその「自由な意思」で自ら「主体的に内省する」ことに躊躇を覚える必要はないのであると思う。そこに人間は「罪と理性との調和」を見出して新たな「人格の形成」を行なうことが出来ると思う。確かに「罪の意識」は常に人間の意識から離れるものではないが、それは自ら主体的に「新たな人格形成」を踏み込むための「手段」であり決して「目的」ではないのであると思う。よって「刑罰」とは罪の意識への手段であってはならず罪の意識「を」過去の人格形成によって培われた人間の性格「から」排除するための「性格改善刑」である必要があるのであると思う。 参考文献:木村亀二=阿部純二「刑法総論」増補版      団藤重光「刑法綱要総論」増補      大塚仁「刑法概説総論」      和辻哲郎「ポリス的人間の倫理学」