昨日てこてこ歩いていましたら
街路樹の剪定がはじまっていました(‐^▽^‐)
木に人が登りついて、モサモサしていた葉枝を
ばっさばっさ切っていました↓
周りは緑のいい香り
が~漂って
夏から秋への季節の移り変わりを感じました
さて、霞ヶ関の赤レンガ(=法務省)の話をしましょうか
ここはなんとな~く一般国民が侵入しずらそうに
門番2人立ち、いつもゲートが閉門していますが
『見学させてください~♪』とニコニコ
言いましたら
とっても親切に『どうぞ
』と法務省閲覧室の玄関まで案内してくれました
敷地内から撮ったわたしのスキな『日の丸』 ↓↓
建物内は写真厳禁でした
(ざんねん・・)
この建物は明治21年に着工始め、明治28年完成してからここにあるそうです
無料で入場できる場所は正面左の棟3階で
もともと司法大臣が住んだ官舎部分で、その3階は
司法大臣官舎の大食堂があったのだそうです
昔のまま復元修理されたフロアには、いろいろな歴史資料が展示されています
●大正12年9月1日の関東大震災では、びくともしなかったそうです
●昭和20年東京大空襲のとき、外壁を残して屋根、内装が焼けつくされ無残な様相でした
●昭和25年に改修工事が行われましたが
外見はまったく違う建物が建ってしまいました
●平成3年~6年、外装に重点を置いた修復がなされ
昔の写真のように柱も、屋根も、蘇ることが出来ました
明治のロマン ドイツ・ネオバロック様式(=西洋式建築)
ドイツ人Wilhelm Bockmann(ウィルヘルム・ベックマン)が図案を起こし
河合浩蔵が建築監督をしたとか
もう1人、ドイツ人のHermann Ende(ヘルマン・エンデ)が図案を起こしていたのだけれど
採用されなかったそうです
これは、和洋折衷案 外観図案はエキゾティックなおしゃれなデザインでした
『霞ヶ関』は江戸時代
奥州古街道にあった関所の名前だそうです
もうすこし神谷町寄りに霞ヶ関という名の関所があったとか
●明治5年頃→ 外務省など省庁が建てられるようになってから
霞ヶ関という地名が正式についたそうです
江戸時代は、江戸城周辺は大名屋敷だったところが
明治維新後は、この辺一帯は軍用地として使用したのだとか
●明治4年7月→ 今までの
□刑部省(ぎょうぶしょう)・・・刑罰・訴訟をあつかった役所
□弾正台(だんじょうだい)・・・犯罪を取り締まり、風俗を正した役所
が廃止され、司法省が創設されました
●明治4年9月→ 司法省付設機関『明法寮』ができて
明治初期の司法実務を考えたのだそうです
(たとえば、律令にあった「笞・杖・徒・流」という刑罰を
すべて『懲役』という言葉に直したそうです)
●明治8年9月→ 日本の近代法の父・ポワソナード氏のフランス刑法講義を
聴講しながら (←ぜ~んぶフランス語の授業だったとか)
明治9年4月には→ 『日本帝国刑法初案』がつくられました
ポワソナード氏が起草草案したものを元に、議論を行い
条文を1つづつ決定していったのだとか・・・
ポワソナード氏は明治6年11月~明治28年3月まで日本で暮らしたそうです
おもしろいこと気づきましたよ
法律が立案され、閣議決定されると
内閣総理大臣以下、全部の国務大臣が、閣議書に署名します
その時、毛筆で各人が『花押』を書き込むことが
内閣制度創設以来の慣習なんだとか
すると・・・今回大臣になった、福島みずほさまなんか
マンガ字で大臣就任サインしていましたが
今頃、閣議書に書く『花押』を考えている最中なのかな~~~ヾ(@^▽^@)ノ
岡田さんは、お顔が武士顔だから、花押はもともとあるんだろうな~(←予想
)
ふと、そんなこと考えてしまいました
あと、検察官は
事件記録を運ぶ時『風呂敷』を使うそうです(←現職のみなさんほんとですか?)
事件簿が厚くても、薄くても
包むことができるから便利なんだそうです
その風呂敷の柄は
検察の紋章
『五三の桐』を染め抜いたもので
藍色地にオレンジの桐柄が入っていました