豊臣秀吉の義理の甥である浅野幸長は,鉄砲修行に熱心な男だった。幸長は砲術を稲富一夢に師事しながら,慶長四年六月に自由斉流砲術の奧弥兵衛から砲術の秘事を授けられている。
浅 野 幸 長
この時,浅野幸長は奧弥兵衛へ血判を押した起請文を差し入れた。起請文とは,人が約束をする際に、それを破らないことを神仏 に誓う 書面である。幸長の起請文には,授けられた自由斉流砲術の秘事を少しも他言しない事,とくに稲富や安見に秘事を渡さないこととの注記があった。つまり砲術秘事を誰にも他言しないと神仏に誓う書面を入れなければ,その砲術秘技を習うことはできなかったのである。
また砲術伝書は,一種の鉄砲の操作技術や火薬作製技術を記載した一種のマニュアルといえるものなのだが,肝心要の部分になると「以下口伝」とか「大秘にて業口伝」と書かれ口頭でしか教えないことが多かった。
毛利伊勢守流砲術の伝書 (慶長17年成立)
金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵
砲術技術は,例えば数十万発もの射撃デ―タを採取し検討分析することにより発見・開発された。この技術獲得には莫大な時間と資金が費やされている。優秀な技術を開発した砲術流派の先行利益は大きい。そしてその技術を独占したいと考えるのは,人として当たり前のことだ。だからこそ日本の砲術流派は,自流の砲術技術が,他者や他流に洩れることを怖れたのだ。
日本には明治まで特許制度がなかったから,日本の砲術流派は,自己の優秀な技術を秘匿しようとした。それは誰にも批判できないだろう。江戸時代に日本に特許制度が整っていれば,砲術ばかりでなく様々な技術革新と経済発展に大きな寄与があったはずである。