万やむを得ず,『壺の碑』の日 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

火縄銃を切り口として
日本人を考えるブログ
です。

        

 宮城県図書館に調べ物に行ったら,休館日だった。休館日は毎週月曜日だが,今日は,ゴールデンウィーク後の代休日だったのである。止むを得ないから,その近くにある東北歴史博物館を訪ねたら,ここも臨時休館日だった。万やむを得ぬから,暇つぶしに多賀城跡を散策してきた。

 多賀城は,平安時代の東北の行政の中心地で,古代中央政府に従わない東北地方平定のための軍事の中心でもある。壺の碑の写真などを撮り,早々に秘密基地に帰ってきた。壺の碑は,西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地である。江戸時代にこの石碑が発見されると、すぐに「壺碑」と関連付けられ、有名になったという。江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、古くからの歌枕の石碑が残っていることに感動したと『おくのほそ道』に記している。

 

壺の碑への入り口
 

 

壺の碑を覆う鞘堂

 

鞘堂内の壺の碑

 

 

 碑には,次のようなことが漢文で記載されている。

 

「多賀城 京を去ること二千五百里
     蝦夷の国の界(さかい)を去ること二百二十里
     常陸の国の界を去ること四百十二里
     下野の国の界を去ること二百七十四里
     靺鞨(まっかつ)の国の界を去ること三千里
此の城は、神亀元年、歳は甲子に次ぐる 按察使(あぜち)兼
鎮守将軍従四位上 勲四等大野朝臣東人の置く所なり……
天平宝字六年十二月一日」

 

と漢文で刻まれている。靺鞨(まっかつ)の国とは,北朝鮮と境を接する沿海州にあった女真族の国である。当時の一里は,約535メートルだったから,靺鞨まではおおよそ1600キロ離れているということになる。これが,概則の直線距離とするならば大体あっていると思われる。一方京都までの距離は,400キロ程度の誤差がある。当時の人はどのようにして距離を割り出したのか,とても不思議である。こんなことを考える私も不思議な存在だ。

 まぁ,そういうわけで,今日は万やむを得ず,壺の碑の日になった。まあ,こういう日があってもよろしいだろう。