11.
「多分お母さんはね、私たちのことを考えてそうしたんだと思うんだよね」
美波は涙をこらえるように、先ほどよりも弱々しい声で振り絞るようにそう言った。
「どういうこと」
「弟はさ、お父さんが死んじゃった時まだ一歳で、その事実は知らないでしょ。でも弟が大きくなった時にやっぱりお父さんがいないっていうのは可哀想だと思うんだ。授業参観とか運動会とかたくさんの行事があって、うちの家族だけお父さんが来なかったら周りの人にはうちにお父さんがいないってことは薄々バレるだろうし、そうなって傷つくのは弟だし……。それに、その人は一流のサラリーマンだったから今考えれば相当のお金を持ってたんだよね。だから、お母さんの本心でそうしたかった訳ではなくて、あくまでも私たちの将来のこと考えてそれを決意したんじゃないかなって。今ではそう思ってる」
「なるほどね……」
美波のそういう考え方には確かに納得できた。
しかし、子供のためならば本心でない行動をそんないとも簡単に起こせてしまうのだろうか。
いくら子供のためと言えど、本当に好きじゃない人を新しい夫として受け入れ、これからの人生を共にしていくことができるのだろうか。
俺には、それだけがどうしても理解できなかった。
「その人は今でも……?」
「そこなの」
「え?」
「そこがね、重要なところなの。これまでの話は、あくまでも経緯でしかないんだ」
――ここまで衝撃的な事実の数々が、本題ではなくあくまでもそこにたどり着くまでの経緯だなんて……
これから一体何を聞かされるのかと、俺はいよいよ怖くなってきた。
先程まで心地よく俺を優しく包み込んでいた潮風も、今では冷たく俺と美波の間をすり抜けていくだけに感じられた。
「弟の事を考えてね、私とお母さんはその新しいお父さんのことを言わないことにしたの」
「え……それって、その人が最初からお父さんだったように過ごすってこと?」
「そう」
「そんなの!!」
俺はそのことに驚き思わず大声を出してしまい、慌てて声のボリュームを下げ「あんまりじゃないか……」と小さく吐き捨てるように呟いた。
「ね……天国にいるお父さんは、それを見てなんて思うだろうね。でも、私の中ではやっぱり死んじゃっているとしてもその人がお父さんで、その人をお父さんだなんて一度も思ったことないよ。ただ、弟のためだと思って、それがお母さんのためにもなるって思って、ただただ我慢してたの。そのおかげで、多分弟には今でもそれは気付かれてないと思うんだ」
俺はもはや、言葉を発するどころが絞り出すこともできなくなっていた。
ただただ美波の言葉に耳を傾けることしか出来ず、それだけの自分が嫌になりどこかに走り去ってしまいたいような気分だった。
「あたしが高校一年生の時、その人は部長にまでなってたの。だから、収入も安定するどころかすごいあったし贅沢が出来るくらいだった。お母さんは家事や子育てをしながら、もちろんその人と再婚したことで以前より頻度は減ってたけど、喫茶店やスーパーで働くのを辞めたの。これだけ収入があれば、もうお前も働かなくて済むだろって、その人がそう言ってお母さんに辞めることを勧めたみたいなんだけどさ」
その美波の話に聞き入るかのように、次の美波の発する言葉を待つかのように、気付けば先程まで鳴いていた虫の鳴き声も聞こえず、周囲は沈黙に包まれていた。
「それから一年後くらいに、会社が大きなプロジェクトを立ち上げて海外の企業と提携して仕事に取り掛かったの。でも、その提携先の国が不況で経済状況が乱れてて、その国の企業と提携していたその人の会社も当然その不況の波にさらされて、ついにはその事業も大失敗。会社には多額の借金しか残らなくて、そこから逃れるように会社はあっという間に倒産したの」
「その話、聞いたことある…確か倒産した会社は株式会社日陽…」
「そう。そこ」
「じゃあ、今の生活は……?」
「その人が部長に昇進する前から課長とか色々役職には就いてたから、収入はかなり良かった方だと思うしその頃はまだお母さんも働いてたからさ。その時ある程度貯金はしてたからなんとかここまでこれたけど……。ただその人新しい仕事探してたんだけど年齢が年齢だし、日陽で働いてたっていうだけで門前払いらしくてさ……。それでその鬱憤晴らすために、貯金を使ってお酒だの博打だのクラブだのに通い始めちゃって……。お母さんが止めようとしたんだけど、お母さんのこと殴って、家中の家具とか壊して出ていったの……。それが、高校三年生になった頃。それでお母さんはまた働き出したんだけど、一か所じゃ到底家計支えられないからって三つも掛け持ちして、早朝から夜中まで働きづめでさ。お母さんだけに無理させら れないから、私もバイト始めてさ。でもこの間お母さん過労で倒れちゃって……。だから最近は、時間があったら毎日バイトしてたの」
それが最近の美波から明るさを奪っている原因だった。
美波は話している間、俺の顔を一切見ずに遠くに広がる海を見つめていた。
薄くおぼろげに月にかかっていた雲が風に流されて、丸く明るく輝いている満月が露わになった。
その月明かりが俺たちの顔を照らし出し、その時初めて美波が涙を流していることに気が付いた。
美波が最近元気のなかった理由が、笑顔ではあったけれど心から笑えていないと感じていた理由が、今ハッキリとわかった。
その理由をずっと知りたかったはずなのに、いざそれを知った俺はどうしてよいかわからずばつの悪い思いだった。
内容も受け入れがたいことだったが、友達と旅行をしているという楽しいはずである時間に、過去を思い出せたこと、今の辛い現状を聞きだし辛くさせてしまったのではないかということもあり、胸がしめつけられるような、なんとも言い難い苦しさに襲われた。
美波が話を終わるのを待っていたかのように、再び虫が合唱を始めた。
そしてどこからか、ワオーという犬の遠吠えが一つ聞こえた。
時計を見ると、もうすぐで12時を回ろうとしている。
夜はまだまだこれからだった。