風穴<追記あり> | フィギュアスケート妄想・疾走者

フィギュアスケート妄想・疾走者

どこかの民族では、数の概念は「1、2、たくさん」しかなかったとかいう話を聞いたことがある。

一人でも、二人でも、大勢と組んでも、高橋大輔はかっこいい。

「トーンポリシング」という言葉がある。

<引用>
発言の内容ではなく、それが発せられた口調や論調を非難することによって、発言の妥当性を損なう目的で行われる。

(中略)

ベイリー・ポランドは『Haters: Harassment, Abuse, and Violence Online』において、女性が頻繁にトーン・ポリシングの対象となることを示している[1]。「女性たちの話の中身ではなく、女性たちの口調を批判するという戦術に切り替えることを通じて、男性たちが築いたものは、議論によってではなく、男性たちが善意で議論に参加するかどうかによって論争の結果が決定するような環境である」と彼女は述べている[1]。

<引用終わり>
(Wikipedaより)

これを思い出したのが、ここのところ発言の口調どころか、「デーオタという属性を持って」、大輔ファンを攻撃するお人がいて、いささか目に余ったからである。



見かけた大輔ファンの記事は、羽生選手と宇野選手の戦績に対するものである。それに対して、記事の内容に対してきちんと反論をせず、デーオタがどうこうという論旨展開をしているのだ。
「味方顔しているけど、宇野ファン迷惑みたい」と、記事の内容以外のことをガーガー語っている。
レッテル付けによって発言の内容以外のことで攻撃するのは、厳密にいうとトーンポリシングではないわけだけれど(単なる差別だな、「DLM」とでも言おうか、ハハハ…)
似てはいるので、ちょっと連想してしまったのだ。



で、ベイリー・ポランドさんの言葉を読んで、なるほど、と思う。
デーオタを攻撃するそのお人がどう思ってるか知らないが、大輔ファンはある程度、宇野ファンからの支持を受けている。
いや、正確に言おう。デーオタである私は、何人かの宇野ファンのフォローを受けている。これは事実だ。

ちょっと話が飛ぶが数年前のこと。
その頃、アメーバのフィギュアスケート関係のランキングで、私のブログは大体30位くらいだった。「これから大輔ファンがどんと増えるとは思えないし、これくらいで頭打ち、いや、下がっていくかな?」なんて思っていた。
ところが、いつのまにかそれより上がっている。「いいね」ボタンの傾向をみたら、宇野ファンで私のブログを読んでいる人はそれなりにいる。おそらくランキングが上がったのは宇野ファンの存在が大きいんだと思う。
なんでかな、と考えて、まあ思い当たることもあったわけだけれど、うまく言語化できなかったのである。

ベイリー・ポランドさんの言葉をちょっと変えると、そのあたりがうまく示せそうな気がした。

「羽生ファンたちが築いたものは、議論によってではなく、羽生ファンたちが善意で議論に参加するかどうかによって論争の結果が決定するような環境である。」
ネットにおける圧倒的多数派の羽生ファンは、ネットにおける主流を自分たちで決められる。というか決めてしまう。
他者を誹謗中傷するようなことを堂々と書いて、その記事が削除され非難されても、羽生ファン界隈で支持を受け続けているので、大手を振って記事を書き続けている、そんなブログ主が複数いる。
それどころか誹謗中傷していて記事を削除された当の本人が、他者が自分の推しを誹謗中傷している、と正義漢ぶって非難までしている。おまゆう案件もいいところである。

そんな閉鎖的な歪んだネット界隈の中で、別の価値観の軸を持っている人間の存在は、風穴になるのである。
例えば私がついこの間記事にした「正しい技術からしか感動が生まれない」という言葉。
これ、暗に「あの選手は正しくない技術で演技しているから、私は感動しない」と言ってる。言い換えると「あの選手に感動しているのはおかしい」と、その選手の演技を好む人全般をディスっているのである。
そういうおかしいと言われた側からすると、その意見に抗議する人間は、風穴となりうるのだ。

たいていの「抗議する人間」というのは曲者だ。抗議される側からするとトーンポリシングする要素があると喜ぶような属性を持つ。そこを攻撃して、それで終わり。そんなものだ。しかし裏ではそれなりの支持を得ていたりするのである。
岩盤を掘りぬいて風穴を開けるとなると、それなりの硬さが必要だから、いささかの癖は許容されるという感じかな。役に立つこともあるから置いておこう、という感じ。
(逆に邪魔だから除きたい人もいるとは思うが、まあそれは人それぞれの価値観だ。)

あるいは、緩衝帯。
確か、会場まで駆けつけるネイサンのファンが「2019GPFより埼玉ワールドの方がアウェイ感少なかった。宇野ファンがいたからか。」と語っているのを見かけた記憶がある。
多数を占める価値観の人の集団があるところに、それと違った価値観を持つ人が入り込めば単純な対立となるが、もう一つ別の価値観の人が入ると違ってくる。
そんな感じ。

三国志とか銀河英雄伝説とかいった物語が人気なのは、二つの国の対立のようで、その対立を外しかねないもう一つの国の存在が、話を複雑に面白くするからかな、と思ってしまった。





ちなみに三年前の今日の記事が微妙にこの話題と重なるようなところもあったので、リンクを貼っておきます。
”「あくしつ」は呪いの言葉” 



<追記>
話題にした人、この記事取り上げてたんだけど。記事の中で、私の言葉と、別の人の言葉と混ざってる。私が言ってないことが、私が言ってることに反論する文章の中に入り込んでいる。
うん、こりゃコミュニケーション難しい人だねぇ。

まあ、私個人はこの記事、一度「昌磨のファンの方々、読んでくれてありがとー。」という感じのことを書きたかったというのが本音なので。
あ、むろん、私の記事を(支持方向で)読んでくださってる羽生くんのファンの方々のこともありがたく思っております(怖いもの見たさで来る人がいるのもアクセス数の変動で察してる。さすがにこちらはありがたいとまでは思えないけど、まあ面白いなあと思ってる)。

何をやろうと敵は絶対やってくるのだ。男は外に出れば7人の敵がいるというが、女は14人いるときだって結構あるわけで。世の中なんてそんなもん。
私にとっては今、私の文を好んで読んでくれる人がいてくださることこそが大事なのである。