ちょっとしつこいとは思いますが、飛鳥の宮があった奈良盆地(大和や飛鳥)は、大阪平野に流れ出る大和川に支えられていました。
ごめんなさい。長いです!!
1枚目の写真を見てください。...
北の生駒山、信貴山、
南の二上山、葛城山、金剛山、その間を流れる大和川がその生命線でした。
1枚目の地図を見ていただくと、大和川は、奈良盆地に入って複数に分かれます。支流の中には蘇我川、飛鳥川などもあります。
逆に大阪平野に流れ出てから、信貴山、生駒山に沿って、いく筋にも別れて北上し、難波宮(大阪城がある上町台地)の東で、淀川に合流していました。
現在の堺市方向に流れる大和川は、江戸時代に開削した川筋を変えた新しい川なのです。
話を戻して、
話題にしたいのは、奈良盆地を流れるたくさんの支流が、信貴山と二上山の間を切り裂くように、一本にまとまって流れていることです。
ここは地滑りの巣で、「亀の瀬」と呼ばれる、交通(水運)の要衝でした。
飛鳥時代、瀬戸内海から遡上した船は一旦、この「亀の瀬」で荷物をおろし、大和側の船に積み替えていたようです。
面倒だったでしょうけど、国防上有益に働いていたのではないでしょうか?
瀬戸内海を東上する船に乗った敵の軍隊が、奈良盆地まで一気に攻め上がれない!
逆に言えば、亀の瀬を守れば、大和を守れる!
と言う状態が作られていたのではないでしょうか?
2枚目の写真で、葛下川と曾我川の間に印した上の黒点が、先週訪れた「牧野古墳」のおおよその位置です。(下の黒点はあとでお話します。)
この「亀の瀬」と、二上山の北および南西を通る道を監視できる位置が、上の黒点、牧野古墳の位置なんです。何となく交通の要衝って感じしますよね!
牧野古墳が、ただ単にある豪族のお墓とは思えないでしょう!
明らかに意図があった!
ここは交通の要衝で、国防の急所だったと思われるのです。
蘇我馬子が埋葬され、霊となって子孫を守る位置とすれば、ここが最良でしょう!
蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子なら、押坂彦人大兄皇子のお墓=牧野古墳、すなわち蘇我馬子の古墳=牧野古墳になるでしょう!
2枚目の地図の下の点は、一般に蘇我馬子のお墓と言われる「石舞台古墳」のおおよその位置です。
国防的にもあまり重要と思えない、飛鳥の都の東側に、この時代に君臨していた蘇我馬子のお墓が築かれるものでしょうか?
石舞台が蘇我馬子のお墓と言われる理由は、通説では近くに蘇我馬子の邸宅があったからなんです。
他に物証はありません。ほんまかいな?
(歴史学者さん!物証がないのに、本当に石舞台を蘇我馬子のお墓と決めて、大丈夫ですか?)
当時の人達のように怨霊を恐れ、死穢(死による穢れ)を気にしていた人々が埋葬墓を邸宅の横に作るでしょうか???
今でも日本人の多くは、自宅の横にお墓は建てませんよね。村はずれか、村から少し離れた檀家を管理するお寺の集団墓地の中ですよね。
何故自宅の横にお墓は造らないのでしょうか?
死穢(死による穢れ)を嫌うからですよね。
それなのに、蘇我馬子は、自分の邸宅の横にお墓を造ったと????
埋葬墓ではなく鎮魂のための墓なら可能性はありますが。
でも石舞台古墳は鎮魂墓ではないらしいのです。
だから私には納得できません。
話を戻して、大和川。
遣隋使の小野妹子に帰路同行した隋からの使節の裴世清(はいせいせい)は、この大和川を遡って大和に来たと言われています。
大和川は、まさしく大和国を代表する重要な交通路だったのです。
裴世清と謁見したと思われる蘇我馬子が埋葬される場所は、大和川の要衝から遠く離れた「石舞台」でしょうか?
蘇我馬子ほどの人物が死後に埋葬される場所は、瀬戸内海から攻め込まれる大和川の要衝であったと思われませんか?
「石舞台」ではなく、大和川を監視できる「牧野古墳」の位置の方がふさわしいと感じられませんか?
残念ながら、この仮説にも物証はないので同じ穴のムジナではありますが。
とっても勝手ですが、私は北葛城郡のこの牧野古墳の位置こそ、蘇我馬子が考えた大和の国防となる重要な位置、そして自分のお墓を建てると決めた位置ではないかと感じています。もちろん定説ではありません。
この北葛城郡の地は、曾我川があるくらいで、蘇我氏の本貫地です。
北葛城郡は、蘇我馬子が推古天皇に本貫地を返して欲しいと返還を切望し拒否された地域(少し前に葛城氏の円王(つぶらのおうきみ)が差し出した地域)だったと思われます。
蘇我馬子のお墓は、私には通説に言われている「石舞台古墳」ではなく、押坂彦人大兄皇子お墓である「牧野古墳」であるように思えて仕方がありません。
ちょっと熱すぎたか。
どう思われます?