忠臣蔵1
今日12/14は、赤穂四十七士の本所松坂町の吉良邸への討ち入りの日です。(写真はインターネットから借用。私が自ら出かけたものではありません。)
忠臣蔵でもおなじみの事件(赤穂事件というのが日本史では一般的な呼び方のようです。)ですが、忠臣蔵が有名になった分、史実が誤解されているとも言われています。
例えば、赤穂事件は、大石内蔵助をはじめとする「四十七士の仇討ち」と、言われますがそもそもここから変なのです。
「仇討ち」とは、無念の死を迎えた親に対し子供が親に代わって相手を討つことです。
赤穂事件では、刃傷沙汰に及んだのは浅野内匠頭(少なくとも親ではない)であり、その浅野内匠頭は殺されたわけでもありません。被害を受けたのは一方的に吉良上野介です。
従って赤穂事件は、「仇討ち」ではありません。
刃傷事件のあと浅野内匠頭が即日切腹となりますが、これを不満とする「仇討ち」なら、相手は吉良上野介ではなくて、徳川幕府(将軍綱吉や江戸幕府の家老)でなければなりません。
しかし、大石内蔵助たちは、討ち入りの際に掲げた口上書(吉良邸討ち入りの理由説明書)には、浅野内匠頭切腹に対する幕府への不満や、喧嘩両成敗をしてくれなかったことに対する不満は一切綴られていません
。
一般に言われている吉良上野介の浅野内匠頭への嫌がらせ(内匠頭が口走る「積年の恨み」となるようなこと)もなかったようなのです。
つまり、大石たちの本心は、忠臣蔵で語られるような「主君の仇討ち」でなかったようなのです。
つづく。
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