先日紹介したドリアングレイの肖像について、ちょっと考察。

というか、以下、散文的に自分の思考をメモとして残しておく。

 

 

 

 

原作書籍の他に、

アマプラで見れる1944年に公開された、ほぼモノクロの映画『ドリアングレイの肖像』(The Picture of Dorian Gray)と

YouTubeに『Picture of Dorian Gray (1973)』としてアップされていた動画に目を通した。

 

 

補足

YouTubeの方、『Picture of Dorian Gray (1973)』というタイトルになっているけれど、Wikiには該当になるものがなく、なんだろう?と思って検索かけたら、

邦題でデッドリー・ゾーン(The Picture of Dorian Gray)とされたアメリカ映画がヒットした。

 

 

YouTubeの方は字幕はなく、日本語吹き替え版もなかったし、英語は聞き取れないしで大苦戦…。

翻訳アプリもいくつか試したけれど、音質の悪さのせいで(アプリが実用性に達していなかったかもしれないが)全く歯が立たなかった。

なのでフィーリング解釈で考察を進めていく。

 

 

この先、上記3作品(原作1本、映画2本)のネタバレがあります!!

ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気になっていることはひとつ。

誰が魔法使いだったのか、だ。

 

原作を読むと、ドリアンは確かに「自分の代わりに絵が老いてくれたらなぁ!」っと願っているのだが、その前段階として、絵を描いたバジルが絵に対して「自分を注ぎ込みすぎた」と話している。

 

アマプラ(1944年)の方では、肖像画と一緒に掻かれたエジプトのネコの像が、肖像画に不思議な力を宿したように描写されており、

これに関しては、魔法使いは「ネコの像」となるだろう。

tubeの方では『特定のなにか』が魔法を使ったようには描写されていなかったように感じる。

 

 

 

 

 

ドリアンが「僕の魂を見せてやる」と醜く老いた肖像画をバジルに見せたシーン。

(小説P303あたり)(アマプラのほうでは1:10:00~あたり)(tubeは58:00~あたり)

 

「祈ろう」と提言するバジルに、小説では「もう遅い」とだけ言い拒否を示したドリアンだったが、

アマプラ(1944年)の映画版では「やってみたけど無駄だった」と描写されている。

(tubeの方ではドリアンがいきなり逆上してバジル殺してしまったように見える)

 

小説(原作)ではわからないけれど、

「やってみたけど無駄だった」という発言から、ドリアンにはもう魔法じみた力はないのか。

それとも、元凶となった力はバジルのもので、バジルが早くに真実を知って祈っていればまた違ったのか。

(でも映画1944の方では、ネコの像が魔法使っているので、「そりゃネコの像の前で祈らなきゃだめだろうな」という解釈もできる)

 

 

 

『物に念を込める』『言霊』

『物に念を込める』『言霊』の思想って、日本ではわりと信じられがちというか、

結構古くから根付いた思想だと思うけれど、

同じ感覚が海外にも存在しているのか?

 

1880年頃のイギリスの宗教観を調べたいのだけれど、

19世紀、という100年単位でしか検索に引っかからない…。

世論というか、そういうピンポイントで知りたかったんだけどなぁ…。

海外ではやはり宗教絡みはセンシティブなのかしら。

 

もし、『物に念を込める』という思想があったとしたら、元凶は画家のバジル。

『言霊』についての信仰があるとしたら、元凶はドリアン自身にあるだろう。

 

 

 

 

画家の序文。

映画や要約ストーリーでは記されていない、小説冒頭に載せられた作成秘話。

 

P5

1884年の春、オスカー・ワイルドはしばしばアトリエに現れた。

(省略)

「あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ」嘆息まじりにワイルドが言った。

「まったくだ」とわたしは答えた。

「もし『ドリアン』がいつまでもいまのままでいて、代わりに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなあ!」

(省略)

 バジル・ホールウォード

 

 

画家バジル・ホールウォードは実在した…?

それどころか、『ドリアン・グレイ』のモデルとなった人物も実在していたように取れる。

だとしたら、作中にオスカー・ワイルドの代役として登場した人物こそが魔法使いか?

 

 

 

誰がオスカー・ワイルドの代役か

作中、主に登場したのは、『画家のバジル』『モデルのドリアン』『快楽主義者のヘンリー卿』の3人。

仮に「画家の序文」からバジルと『ドリアンのモデル』となった人物が実在していたとしたら、消去法でワイルドの代役はヘンリー卿となる。

 

もちろん他にも登場人物はいるし、なんなら著者が作中に登場するとも限らないが…

 

 

 

『ドリアン・グレイの肖像』におけるヘンリー卿の立ち位置

バジルの友人として登場したヘンリー卿。

最初、彼はドリアンとは知り合いですらなかった。

バジル経由で、ドリアンとヘンリー卿は出会ったのだ。

 

作中のヘンリー卿は、バジルともドリアンとも良き友人として登場する。

どこらへんが『良き』なのかはさておいて、

私からは『悪ぶっているけれど本当は心根のいいやつ』として見えたし、

恐らくバジルもヘンリー卿についてそう思っているようだ(P150)

 

 

ドリアンが愛したシビル・ヴェインが死んだときも、ドリアンを心配して駆けつけてくれたし、

ドリアンがバジルを殺して動揺してヘンリー卿に突っかかっていったときも、怒ることなく「なにかあったらしいな」と察して社交界の場を抜けようと提案している。

 

P398前後で行方不明となったバジルについてヘンリー卿が語っているときも、

「バジルが好きこのんで身を隠したというなら、ぼくはそれにたいしてかれこれいえる立場ではないし(省略)」と述べている。

これは、本書紹介で引用したP149の言葉があてはめられるのではないだろうか。

即ち、

いちどこっちが惚れこんだ人間なら、その人間がどんな行為で自己を表現しようと、すべてぼくには好ましいのだ」

 

バジルが選択したことなら、どんな理由であれ尊重する、という友情を裏付ける発言と受け取れる。

 

 

バジルはヘンリー卿のことを「ドリアンに悪影響を与える」と危惧していたが、

バジル自身はヘンリーと懇意にしていたし、やはり悪くは思っていなかっただろう。

ドリアンにしてもヘンリー卿に信頼を置いていた。

 

作中、『ドリアンを堕落させた悪いやつ』という役回りとして登場するには、

些かヘンリー卿はいいやつ過ぎる・・・・・・・

 

 

 

 

逆説公(P366)

ドリアンがヘンリー卿のことを『逆説公』と夫人に紹介している。

「画家の序文」では、「著者の逆説にたいする並々ならぬ愛着のゆえにこそ」という記載があることから、著者オスカー・ワイルド自身が『逆説』を好んでいたと考えられる。

 

 

 

 

果たして魔法使いは・・・?

ここまでの考察で、恐らく著者が意図的か、無意識下はわからないが、

ヘンリー卿という登場人物に、少なからず自身の影を重ねていたことが窺える。

だとしたら。

 

だとしたら、最初に「代わりに絵が老いればなあ」と言ったのはワイルドで、

作中ドリアンに同様の言葉を言わせる転機となる考えを与えた(P52)ヘンリー卿こそが、

魔法使い――――ドリアンの肉体的成長の時間を止め、肖像画にその代わりをさせた元凶たる人物なのではあるまいか。

そして、主要登場人物3人の中で、ヘンリー卿だけが唯一の生き残りなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おお、なんとなく考察ぽい記事になった。

オスカー・ワイルドの他作品を読んだことがないので、まだまだ考察の余地はあるものの、

かなり深く考えられる作品である。

 

 

 

 

 

余談

ドリアングレイ症候群

ドリアングレイ症候群 / 心理学 | 心理学、哲学、そして人生について考えること。 (sainte-anastasie.org)

 

知らなかった。

こんな病気があるのね。

 

以下、wikiの引用である。

医学書や論文からの直接の引用ではないため、参考程度に。

 

ドリアングレイ症候群は以下3つの特徴を持つ

①身体醜形障害

極度の低い自己価値感に関連して、自分の身体や美醜に極度にこだわる症状。

 

自己愛性パーソナリティ障害

ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害。

 

③発育遅滞

 

(④性的倒錯)

広義には、常識的な性道徳や社会通念から逸脱した性的嗜好を指す。

 

 

 

言い得て妙、ではあるが、

ぴったりの病名だな…