小さな悟りを求めて -30ページ目

「声」込められぬが悩みの種

はてなに記事を書きました。

https://dimofsoul.mitona.org/entry/takahasiGenitirou

文章に「声」を!

……と書いていますが、その「声」がうまく込められないのが悩みの種です。

「悩みの種とか思ってるなー」と観察すればいいだけの話ではありますが、笑。

出力

入力があり
内部処理があり
出力がある

入力があることにも
内部処理が行なわれることにも
出力がなされることにも
特別な意味はない

入力が結果として出力を産み
出力は他者への入力となって
連鎖が起こる

連鎖にも意味はないが
連鎖こそが世界である

世界は機械的に
連鎖を続ける

機械的にすぎなくても
そこに感情が生まれる

感情の波が連鎖し共鳴して
ぼくたちはこの世界に産まれた
意味を知る

普遍的な意味などないが
個別に普遍性を作り上げる
そのことこそが

ヒトとして生まれたことの
意味に違いないのだと

そのような暫定的な出力が
今ここでなされたということです

何もしなくてもいいことの確認

何もしなくてもいい
今はそのことを確認しよう

ぼくらはこの世に
何の因果か生まれ落ちた
生まれてしまったからには
とりあえずは生きるのだ

生きるに値する
理由などなくても
死ぬのがめんどくさいという
消極的な理由からでも

とりあえずは生きてきたのだ
生きているだけで
十分なのだ
なぜなら

生きることの意味など
あとから物語として
つけ加えられるだけのものであって
とにかく生きてさえいれば

誰もが何者かになろうとして
誰もが幸せをつかもうとして
誰もが誰かに認められようとして
生きることになるのだ

誰かは究極の境地に至り
誰かはこの世の真実の姿を見て取り
誰かは永遠の命を勝ち取って
彼岸へと渡ってゆくに違いない

とにかく生きてさえいれば
つまり生きることがあまりにも
苦しいだけの不条理そのものに
成り下がらないだけの
運さえあれば

何かをする必要はない
何かをして自分を
証明などしなくていい
自己の実現など蹴っ飛ばしてしまえ

「何かをしなくては」病が
蔓延しているのだから
むしろ何もしないことで
貢献すればよいではないか
この意味不明な世界とやらに

いや無論
貢献などしなくていい
人生に意味など不要なのだから
何もせず無益無得に生きて
神の情けに頼ろう
そして
一瞬一瞬を味わう特権を

享受させてもらおう
明日をも知らぬ不安を
ぴりりと辛い香辛料に
誰にでもすすめられる
ものではないのは承知の上で
もの好きな君が
「おお、そうだ、その通りだ!」と
もろ手を打つ姿を頭に描いて

とにかく生きてさえいれば
何もしなくていい
本当にこれでいいのかと
不安にさいなまれるにしても
そんなものは尿意と同じ
ただの生理現象にすぎないのだから
寄せては返す浜辺の
波と変わらぬ自然現象なのだから

何もしないこと
さえ
貫徹
できれば
きみは
すでに
悟ったも同然

そして悟ることはできなくても
何もしなくて

いいことくらいは
確認できたはずだ
少しは納得が
いったはずだ

神の情けに生きる覚悟も少しは
定まっただろう

そしてその覚悟が
大いに定まったことに
するのだ



天国と地獄を生きる奇跡

この世界の存在自体が奇跡であり、そこに生を受けることもまた奇跡であると、そんなふうに思うようになってきました。

そして、この世界は天国の性質と地獄の性質を重ね持つので、地獄に近づかぬよう、天国に近づけるよう、注意深く生きたいものだと思うのでした。

注意深く生きるためには、呼吸に意識を向け、仏教的な世界観の助けを借りて、瞑想の練習をするのがなかなかよい感じです。

インドのサドゥーに瞑想の手ほどきを受けて

先日ハリドワルのよく行くお寺でサドゥーの方から瞑想の手ほどきを受けました。

その行者の方は座ってじっとしてるだけが瞑想じゃないよ、姿勢はくずしていても、寝っ転がっていても、二十四時間全部瞑想なんだ、と言います。

そうして自然に目を開けたまま座る瞑想に入られて、ぼくも向き合って目を開けたまましばらく瞑想しました。

五分か、あるいは十分くらいの短い時間でしたが、そのババジはぼくの目の辺りをじっと見て、まったく視線を動かさず、まばたき一つしませんでした。

ぼくは、自分の存在が完全に受け止められているのを感じて感無量でした。

素晴らしい経験をさせていただいたと思ったのも束の間、このように心を開いて精神を集中できる方はインドにいくらでもいるだろうということを考えると、きちんとエゴを浄化することのできていない贋グルにひっかかってしまう可能性もたくさんあるわけだなと、つまらない考えをもてあそんでいる自分に気づくのでした。

いまだ世俗の幻影遊戯にうつつを抜かし続けて、真実を見ること、自分の愚かさを知ることから目をそらしてばかりの現状をここに反省し、ゆらりゆらりと悟りの高みを目指したく思うインドの聖地の昼下がりです。

物質からなる世界を、心が自由に解釈する - 心的唯物論

ぼくはこの数年ヴィパッサナー瞑想をそれなりに練習していて、また、精神世界系のことにもまずまずの関心があるのですが、世界観としては基本的に物質主義の立場です。

世界は物質とエネルギーで成り立っていて、その世界の中、ヒトというハードウェアが存在し、そのハードの上に精神というソフトウェアが乗っかっていると理解しているわけです。

で、この先が一般的な「科学的世界観」と異なってくるのですが、ヒトは精神を通してしか世界を認識できないため、世界は物質から成り立つにも関わらず、ヒトの見る世界は「精神のあり方によって規定されたもの」でしかなく、
『「裸の世界」はヒトには認識できない』
と考えます。

マルクスの史的唯物論をもじってこれを「心的唯物論」と呼ぶことにします。

ヒトの心の世界はまったく自由なもので、現実の世界の物理法則を自由に超えることができます。

そして科学的・物質主義的な世界観はあとから学ぶものであり、ヒトに自然にそなわるものではありません。

ですから、ぼくたちがいくらあと付けでこの世界を科学的に理解しようと、もともとのヒトの性質としてぼくたちが理解するこの世界は、物理法則に支配されるものではなく、自由を本質とする心が描く魔法に支配されているのです。

薬物を用いて精神世界を探求する方の言葉をツイッターで読んで、この世界の持つそうした「魔法的側面」を久しぶりに思い出したので、ざっと素描してみました。

「悪」について

アドルフ・ヒトラーという生き方も、麻原彰晃という生き方も、安倍晋三という生き方も、自然法則の一つの帰結として存在を許されている。
「悪」も自然な現象である以上、現実の世界において「悪」を根絶することはできない。
ぼくたちにできるのは、「悪」を根絶することではなく、自分の中の「悪」と向き合うことである。

雨の日が続いても、それもまた佳き日で。

毎日楽しいことばかりあったらいい人生になるかというと、そういうものでもありません。

いくら好きな食べ物でも、毎日そればっかり食べてたら飽きちゃいますもんね。

そして、人生に浮き沈みはつきものです。

晴れの日もあれば、雨の日もある。晴れてばかりで雨が降らなければ、水不足で困ります。

気分が冴えないときに、「そういう日もあるもんだ」と受け止められるようになることは、人生を気持ちよく生きるためにはとても大切なことです。

なんだかつまらない気分になったら、とりあえず三回深呼吸でもしてみましょう。

そして今自分にできることを考えて、散歩でも、部屋片付けでも、あるいはちょっと昼寝でも、そんなことで気分を変えてみれば、人生に対する見方も変わってくるはずです。

今いやな気分だからといって、それが永遠に続くわけではありません。

いい気分でも、いやな気分でも、やってきては去ってゆくだけのもの。

毎日の天気や、空の雲と変わりはありません。

ゆっくり呼吸をして、体から力を抜くことができれば、今ここで、心の底までリラックスすることだってできるのです。

そうして心がリラックスすれば、生きていて、存在しているだけで、体はいつも幸せを感じているのだということに、じきにあなたも気がつくに違いありません。

このところ体調がすぐれなかったもので、ぼくもうんざり気味の日々になりがちでしたが、ここで気持ちを切り替えて、毎日に小さな幸せを見い出していこうと思います。

てなことで、みなさんまたねー。

人生がつまらないのも当たり前

例えばネット上に文章を書く。
書くことが純粋に楽しければ、毎日楽しく書くこともできる。
けれどもぼくは、説明しようもない奇妙な動因によって文章を書き続けているだけなのであって、ときに楽しみながら書くことも、ないわけではないが、たいていの場合は、青息吐息に近いような、なんとかかんとか文章をひねり出して、その出来映えにもさして納得するところのないまま、とにかく書き上げたというささやかな成果だけを頼りに、電網の虚空に一束の言の葉を放り投げ、何か求むる心を豊穣無常の海原へ確かに放ったのだと、尾崎放哉の言葉に己を託して心の慰めとするのが精一杯なのである。そんな意味不鮮明の綱渡りの曲芸に時間を幾ばくか費やしたあとには、だらだらと一日を寝尽くし寝過ごすかのような倦怠の淀みで空無に浸り、そうした僅かな動と静を交互に重ね合わせて日々を送る中で、すべてが虚しく、何もかもが面倒くさく、ありとあらゆることがつまらなく思えたとしても、それは何ら不思議なことではないのであって、現状にささやかな満足を見い出せる多数の幸せな小市民の方々には理解がむずかしいにしても、人生生きるに値せずと感じ、さりとて敢えて死ぬための労を厭うゆえに生き恥を晒し続けるのが無頼の徒の定めというものである以上、ああ、そうです、つまらないと感じたことは、そのままつまらないと表現してしまえばいいわけで、いくら言葉を重ねても伝わらぬものは伝わらぬものなのですから、つまるところが、つまらなさの影に隠れたるきらめきを、頭蓋骨の左斜め後ろ上方辺りでちかりとでも感じることができれば、今やってくる一瞬一瞬がいかに退屈なものであろうとも、誰の心にも確かに存在する不思議の種から芽を出したねじくれの豆の蔓草が、天にも届く虚樹となって、刹那という名の断片を数珠つなぎして連続して永遠(とわ)の無限に変容をとげる頃には、夢もうつつのたゆたいまどろむぬるま湯の中で、さまよい続け遠ざかり続ける世界の幻の中心へと向かい、この世の諸法の流れに乗って、ゆらゆらと漂っていくのが結局はぼくらの人生というものなのでしょう。つまらなくても大丈夫、つまらないことにこそおもしろさはいつも宿っている、この世界の片隅に宿ったぼくらという奇妙な意識の波粒は、鎮静と興奮という時代の大波に揺られながら、つまらなさを食い尽くしておもしろさの糧となし、地上に降りた束の間の時間を、可能な限り意味で満たされたと錯覚し、ついでにひりひりと欲求こそは満たされるという限りにおいては、社会の安定には確かに貢献できるのであって、それが決して生産を通しては何の価値も生み出さないものであっても、ゼロから無限が立ち上がるという意味においては、そう、つまりは無為自然、無芸徒食の野良猫人生、これ以上の無駄口はいい加減ここらで切りをつけることにして、以上まとまりもつきませんでしたが、つまらなくても大丈夫というおまじないめいた一文でありました。

うきーーー!

駆け引き、立て前、演技について

佐野さんのところから話題を拾って、短い記事を書きました。
https://dimofsoul.mitona.org/entry/engi