今の心境
頭の中、というのか、心の、というべきか、言葉で表せはしない今現在のその状態について、少し書いてみたい気がするのだけれど、やはり書くのは難しいので、あまり考えずに思い浮かぶままを書いてみます。
森鴎外の「カズイスチカ」という妙な題名の短編を読んでいたら、「ああ、この人は可哀想な人だな」という言葉以前の想いがやってきて、何とも哀しい気持ちになりました。
精神科医の r. d. レインが「人のために泣くことは、自分のために泣くことだ」と言っていて、はじめ聞いたときはぴんとこなかったのですが、今はよく分かります。つまり鴎外にこと寄せて、ぼくは自己憐憫に浸っていたのです。
瞑想の練習が進んできて、言葉以前の想いがやってきたときに、それがどこからきたかが割と分かるようになりました。
いい塩梅に瞑想が深まって頭の中が澄んでいるときには、「これってもう悟ってんじゃないの?」くらい思うこともしばしばなのですが、その状態から普通の状態に戻ってしまえば、結局は変性意識を経験していたにすぎなかったことに気づきます。
同時に、自己憐憫などを基調にして低い大きな波がやってくると簡単に足元をさらわれて、「あ、おれもうダメ」みたいな気分にすぐさま落ち込みます。
上下の波打ちがかなり激しいのです。
波や雨、風、そして地震にさらされて、その困難を乗り越えた先にはきっと新しい地平が広がるのだろうと、希望的観測とこの世界に対する不確かな信頼だけを頼りに、ふらふらと、えへらえへらと、歩き続ける日々なのです。
追記:
明日より瞑想の十日コースにボランティアとして参加します。
というわけで、みなさんまた会う日まで!
森鴎外の「カズイスチカ」という妙な題名の短編を読んでいたら、「ああ、この人は可哀想な人だな」という言葉以前の想いがやってきて、何とも哀しい気持ちになりました。
精神科医の r. d. レインが「人のために泣くことは、自分のために泣くことだ」と言っていて、はじめ聞いたときはぴんとこなかったのですが、今はよく分かります。つまり鴎外にこと寄せて、ぼくは自己憐憫に浸っていたのです。
瞑想の練習が進んできて、言葉以前の想いがやってきたときに、それがどこからきたかが割と分かるようになりました。
いい塩梅に瞑想が深まって頭の中が澄んでいるときには、「これってもう悟ってんじゃないの?」くらい思うこともしばしばなのですが、その状態から普通の状態に戻ってしまえば、結局は変性意識を経験していたにすぎなかったことに気づきます。
同時に、自己憐憫などを基調にして低い大きな波がやってくると簡単に足元をさらわれて、「あ、おれもうダメ」みたいな気分にすぐさま落ち込みます。
上下の波打ちがかなり激しいのです。
波や雨、風、そして地震にさらされて、その困難を乗り越えた先にはきっと新しい地平が広がるのだろうと、希望的観測とこの世界に対する不確かな信頼だけを頼りに、ふらふらと、えへらえへらと、歩き続ける日々なのです。
追記:
明日より瞑想の十日コースにボランティアとして参加します。
というわけで、みなさんまた会う日まで!
「僕のすばらしさについて」
「僕のすばらしさについて」というお題を夜さんにいただいたので、思いつくままに書くことにます。
ぼくはどちらかというと、自己肯定感の低い人間だと思います。
低いから承認欲求も強いし、いつも人生の土台がぐらぐらしていて、今も「あー、記事なんて書けんし、書いてもほとんど金にならんし、この先どうすりゃいいんじゃー」と内面的には崖っぷちの状態だったりします。
けれども、ここで敢えて自分を持ち上げてみますと、そんな崖っぷちの心理状態にも関わらず、以前のように酒に頼ることもなく、しかも今は奥さんも瞑想センターに行って一人ぼっちで異国の地にいるのに、なんとか正気を保ってるんだから、「おれって案外えらいじゃん」ってことになります。
普通に働いて人生成り立たせている皆さんからしたら、あまりに程度の低い話に思われるかもしれませんが、ぼくのように「人生こじらせちゃった」人間からすれば、やっぱり毎日無事に生きてるだけで、十分ほめるに値することなんですよ。
今はホントーに精神ぐらぐらなんですが、あと四、五日で奥さんも帰ってきますし、「このしんどさは、所詮心の作り出した錯覚に過ぎないし、やってきたからにはいずれ去っていくのだ」と瞑想的な枠組みで受け止めて、ピンチを味わって明日の糧にしたいと思います。
あー、俺ってなんて素晴らしいんだろ!?
ところで、夜さん、この「僕のすばらしさについて」って、作文のタイトルだから、ぼくが自分のことを書けばよかったんですよね?
ひょっとしてそれが勘違いで、「僕のすばらしいところを書いてください!」という夜さんからのお願いだったら、大変申し訳ないことになるので、ここで改めて夜さんの素晴らしい点を書いておきます。
それはバランス感の良さですね。
ぼくははみ出し者で、斜に構えた人間なので、どうしても本音の部分で考えが極端なものになります。
それに対して、夜さんはどっしり中道で安定感がある。
そういうところは見習いたいなぁと思ってるんですよ、はい。
というわけで、以上かなり個人的な記事でありました、ちゃんちゃん。
ぼくはどちらかというと、自己肯定感の低い人間だと思います。
低いから承認欲求も強いし、いつも人生の土台がぐらぐらしていて、今も「あー、記事なんて書けんし、書いてもほとんど金にならんし、この先どうすりゃいいんじゃー」と内面的には崖っぷちの状態だったりします。
けれども、ここで敢えて自分を持ち上げてみますと、そんな崖っぷちの心理状態にも関わらず、以前のように酒に頼ることもなく、しかも今は奥さんも瞑想センターに行って一人ぼっちで異国の地にいるのに、なんとか正気を保ってるんだから、「おれって案外えらいじゃん」ってことになります。
普通に働いて人生成り立たせている皆さんからしたら、あまりに程度の低い話に思われるかもしれませんが、ぼくのように「人生こじらせちゃった」人間からすれば、やっぱり毎日無事に生きてるだけで、十分ほめるに値することなんですよ。
今はホントーに精神ぐらぐらなんですが、あと四、五日で奥さんも帰ってきますし、「このしんどさは、所詮心の作り出した錯覚に過ぎないし、やってきたからにはいずれ去っていくのだ」と瞑想的な枠組みで受け止めて、ピンチを味わって明日の糧にしたいと思います。
あー、俺ってなんて素晴らしいんだろ!?
ところで、夜さん、この「僕のすばらしさについて」って、作文のタイトルだから、ぼくが自分のことを書けばよかったんですよね?
ひょっとしてそれが勘違いで、「僕のすばらしいところを書いてください!」という夜さんからのお願いだったら、大変申し訳ないことになるので、ここで改めて夜さんの素晴らしい点を書いておきます。
それはバランス感の良さですね。
ぼくははみ出し者で、斜に構えた人間なので、どうしても本音の部分で考えが極端なものになります。
それに対して、夜さんはどっしり中道で安定感がある。
そういうところは見習いたいなぁと思ってるんですよ、はい。
というわけで、以上かなり個人的な記事でありました、ちゃんちゃん。
語学の話
ルーインさんから語学習得法の記事が読みたい、とリクエストいただきました。
こちらに、以前書いた英語関連の記事がありますので、気が向いたら読んでみてください。
あともし具体的に、こんなとこがうまくいかない、とか、こういう場面で外国語を使いたい、とかいうのがありましたら、その辺りも聞かせていただけると、ポイントを絞った記事が書けていいかなと思っております。
こちらに、以前書いた英語関連の記事がありますので、気が向いたら読んでみてください。
あともし具体的に、こんなとこがうまくいかない、とか、こういう場面で外国語を使いたい、とかいうのがありましたら、その辺りも聞かせていただけると、ポイントを絞った記事が書けていいかなと思っております。
スランプ脱出ゲーム、好評参加者募集中!
記事など自由に書けばいいと、いつも偉そうに書いてる私ですが、つまり書けないときには 書かなければいいと、ただそれだけのことなのですが、書いて一円でも収入を増やしたいと、執着している自分がいます。
そこで皆さんにお願いです。
ぼくに書いてほしい話題はありませんか?
いただいたご意見には可能な限りお答えして、なんらかの記事を書いてみようと思います。
自分の中のまだ見ぬチャンネルが、ひょっとして開けたらと思ってのこころみです。
そこで皆さんにお願いです。
ぼくに書いてほしい話題はありませんか?
いただいたご意見には可能な限りお答えして、なんらかの記事を書いてみようと思います。
自分の中のまだ見ぬチャンネルが、ひょっとして開けたらと思ってのこころみです。
スンドゥプとチゲ
今年の三月に夜さんと会ったとき、横浜の地下の店でスンドゥプを食べました。
「スンドゥプ=純豆腐」、最近はこういう店が流行ってるのねと思いながら、おいしく韓国風のピリ辛豆腐鍋をいただきました。
考えてみると、若いころに飲み屋などでよく食べた韓国風の鍋料理は「チゲ鍋」といって、キムチや豆腐が入っていたものです。
さて、このスンドゥプとチゲ、一体どういう関係にあるのでしょうか。
ネットで調べてみると、チゲはコチュジャンなどの辛い調味料を使った韓国風の鍋料理のこととあります。
そこに具としてキムチが入ればキムチ・チゲということになります。
そしてスンドゥプ=純豆腐は、柔らかいおぼろ豆腐のことで、今の日本ではスンドゥプ・チゲを略してスンドゥプと呼んでいるわけです。
ちなみに日本語の表記、普通は「スンドゥ*ブ*」と最後が濁音の「ブ」になっていて、それはそれで間違いではないのですが、日本語表記にこだわりのあるワタシは半濁音の「プ」を使ってます。
なお、三月に会ったときの記事は、夜さんがこちらに書いてくれてます。
「スンドゥプ=純豆腐」、最近はこういう店が流行ってるのねと思いながら、おいしく韓国風のピリ辛豆腐鍋をいただきました。
考えてみると、若いころに飲み屋などでよく食べた韓国風の鍋料理は「チゲ鍋」といって、キムチや豆腐が入っていたものです。
さて、このスンドゥプとチゲ、一体どういう関係にあるのでしょうか。
ネットで調べてみると、チゲはコチュジャンなどの辛い調味料を使った韓国風の鍋料理のこととあります。
そこに具としてキムチが入ればキムチ・チゲということになります。
そしてスンドゥプ=純豆腐は、柔らかいおぼろ豆腐のことで、今の日本ではスンドゥプ・チゲを略してスンドゥプと呼んでいるわけです。
ちなみに日本語の表記、普通は「スンドゥ*ブ*」と最後が濁音の「ブ」になっていて、それはそれで間違いではないのですが、日本語表記にこだわりのあるワタシは半濁音の「プ」を使ってます。
なお、三月に会ったときの記事は、夜さんがこちらに書いてくれてます。
かなり強力な自己否定
さきほど瞑想をしていたら、「自分は振るいにかけられて捨てられるべき異物だな」という想いが浮かびました。
単なる思いつきではなく、確信を伴った理解です。
なかなか強力な自己否定なので、これは困ったなと一瞬思ったのですが、「異物でもいいのだ」と肯定することで、窮地を脱しました。
それにしても強力な自己否定を抱えているものです。ぼちぼちほぐしていきたいと思います。
単なる思いつきではなく、確信を伴った理解です。
なかなか強力な自己否定なので、これは困ったなと一瞬思ったのですが、「異物でもいいのだ」と肯定することで、窮地を脱しました。
それにしても強力な自己否定を抱えているものです。ぼちぼちほぐしていきたいと思います。
[メモ] 安心感、愛着理論、ポリべーガル理論
前の記事のコメントで「声にこだわりがある」というようなことを書きましたが、ぼくの人生の課題である「安心感」の問題と関係してるなと思ったので一言。
愛着理論で説 かれるような「三歳児までに安心感を得る」理想的な成長に失敗したぼくは、日常的に緊張する時間が多い人生を送っています。
これはポリべーガル理論で考えると、普通の人なら問題にならないちょっとしたことでも「神経系が危険と判断して、緊張状態に落ち入る」ということを意味します。
つまり意識的に何かをしているのではなく、条件反射的に精神の状態が切り替わってしまうわけです。
ですから、自分を振り返ってあと付けで考えれば、「声にこだわりがある」という言い方になるのですが、実際に起こっているのは、「神経的なスイッチが入ってしまうような音を聞くと、自動的に緊張状態になってしまう」ために「ある種の声質には過剰に反応する」ということになるわけです。
この辺りのことを記事として書きたいなと思っていたところだったので、以上メモ程度に書いてみました。
愛着理論で説 かれるような「三歳児までに安心感を得る」理想的な成長に失敗したぼくは、日常的に緊張する時間が多い人生を送っています。
これはポリべーガル理論で考えると、普通の人なら問題にならないちょっとしたことでも「神経系が危険と判断して、緊張状態に落ち入る」ということを意味します。
つまり意識的に何かをしているのではなく、条件反射的に精神の状態が切り替わってしまうわけです。
ですから、自分を振り返ってあと付けで考えれば、「声にこだわりがある」という言い方になるのですが、実際に起こっているのは、「神経的なスイッチが入ってしまうような音を聞くと、自動的に緊張状態になってしまう」ために「ある種の声質には過剰に反応する」ということになるわけです。
この辺りのことを記事として書きたいなと思っていたところだったので、以上メモ程度に書いてみました。