本日は歳様の155年目の祥月命日 お願い

 

ちょうど150年後のその日その時その場所(正確にはわかりませんが)に

いたくて、箱館まで行ったのは、もう5年も前になってしまいました。

実は今年、8月にまた手を合わせに行ってこようかと思っております。

 

さて、このところ一連記事にしております高幡不動尊所蔵「近年之戦争写本

 

初回はこちら 下矢印

 

前回はこちら 下矢印

 

その明治15年・16年版に、土方の「最期」に関する記述もございました。

そのご紹介です。

(明治3年版、佐藤家写本・土方家写本には、ない表現です)

 

土方の最期は落馬してから少しの間意識があったこと

さらにはその後遺体が、五稜郭内に帯刀したまま立姿で埋葬されたと

さらには明治16年版には「英人」に撃たれたとの記述がありました。

 

☆ 明治15年版の本文中記述(展示解説文より)

七重浜エ敵後ヨリ攻来ル、故ニ土方是ヲ指揮ス、故ニ敵退ク、亦一本木ヲ襲フ、敵丸腰間ヲ貫落馬ス、亦坐シテ天地四方ヲ見回シ、平伏シテ息キ絶ユ、遂戦死シ給フ、

 

☆ 同写本 展示ページよりの翻刻

歳三死骸戦ソウ中故 同人本陳中央帯刀立メニス

 

☆ 明治16年版の展示ページよりの翻刻

七重濱官兵後ヨリ 土方馬上ニテ差図 銃丸烈シキ故 従兵諫歩行引退 亦上馬 英人狙撃 銃丸腰間落馬天地四方遂瞑

 

☆ 同写本 戒名等記載部分一部(展示解説文より)

同人死骸ハ同人陳屋ノ中央ニ、帯刀乍レ立痤之

 

 

賢雅和上がどこからの情報を得て、書き加えたのかはわかりません。

よって真偽もまったくわかりません。

ただ、ここから色々な状況を想像して、胸が苦しくなりました。

 

落馬したあと、座って四方を見廻して、何を思ったのか。

帯刀したままはわかるけど、立ったままとはどういう状況なのか。

そもそもあの銃撃戦の中、身体全部をまるごと五稜郭まで運べたのか。

とか、ね…

もっともそれは記述を信じれば、の話ですが。

 

あと、「英人狙撃」は「異国橋で撃たれた」というのが

異国橋→異国人→英人になったのではないか、というご意見も頂きました。

立埋めは古井戸を利用したのでは? とも。

 

いずれにしても、今となっては賢雅和上が、どこから情報を得たのか

何故に15年と16年に写本を残したのか、わからない。

 

今はただ、歳様はじめ箱館戦争で亡くなった方々のご冥福を

心よりお祈りするのみです。

 

 

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   令和6年土方歳三祥月命日  汐海 珠里