本日はよみうりカルチャー横浜の講座です。

 

先日行ってきた、顕彰碑除幕式の時のことも少しお話できたらと思います。

 

 

さて、日にちが空いてしまいましたが、島田魁が所持していた「箱館新選組和歌集」の続き キラキラ

 

七首目はこちら。

 

 

   佐久間政範

山里は淋しきものをけさの秋 このはの末の風のさわだつ

 

 

この方にも解説は書かれていないのですが、弁天台場で降伏した新選組隊士で「佐久間」姓はふたり。

佐久間顕助さんと佐久間銀次郎(銀太郎とも)さん。

ただ十九首目に、「佐久間知成」の和歌があり、そこの解説に「新選組隊士・佐久間顕助ヵ 弁天台場で降伏」と解説があります。

?となっているので、確証があるわけでもないのかな?

でももしそうであれば、上記の和歌は佐久間銀次郎さんかもしれないですね。

銀次郎さんは元唐津藩士で、小笠原長行さんに従って仙台まで来ました。

蝦夷へ渡航の際に、同じく22名の唐津藩士とともに新選組に入隊。

降伏・謹慎後、佐賀の乱にも加勢したりしますが渡仏後に、第2代唐津町長になり、昭和8年まで長生きなさったそうです。

 

八首目と九首目

 

 

   関川叟丸

我庵のにわに咲にし梅の花 四方山かけて匂ふ春かぜ

 

  成合常久

秋の夜はさして淋しきものなるに 旅寝する夜はかりがねのこゑ

 

 

解説によればお二人とも元桑名藩士で、それぞれ関川代次郎・成合清さん。

関川さんはやはり仙台で新選組に加入したのですが

成合さんはその時は主君の定敬さんに随行しての蝦夷行でした。

でもいつの頃か新選組に入ったようです。

明治2年1月の「箱館探索書」に名前が書かれます。

 

 

 

 

この時の記事では略しましたが、「番兵取締」に名前があります。

おそらく… ですが、明治元年の暮に国元から家老の酒井孫八郎さんがいらしたじゃないですか。

大晦日に歳様と面談した方ね。

 

 

藩主まわりについている人数は限られていた(メッチャお金もなかった)ようですし、お世話掛りを交代なさったのでしょうかね。

もしかしたら大野さんの書く、この時 下矢印

 

 

くらいに入ったのかもしれないですね。

明治2年4月に定敬さんは箱館を脱出するのですが、御供には加わることはありませんでした。

 

お二人ともに弁天台場で降伏後は、青森などでの謹慎、さらに国元に引き渡されての謹慎。

明治3年に赦免された後、陸軍に出仕して西南戦争に出征。

帰還後、関川さんは三重県の警察署に巡査として永年勤務したそうですが、成合さんはコレラに罹患して没したそうです。

 

 

   令和2年仲冬(ちゅうとう)22日  汐海 珠里