幕末、続きです キラキラ

150年前の本日は明治2年1月27日。

この頃と思われる時期に、新政府軍の密偵が箱館市中の警備陣を探っていたようです。

 

 

軍艦并市中  大町サ丁宿

取締り法   松沢 音蔵

 

一市中取締り 山崎林五郎

           前田岩太郎

          岡野 久治  (以下略)

   (奥羽蝦夷松前箱館征討日誌)

 

 

福山藩士・石田利助さん著の 「~征討日誌」 の中に筆写された 「松前、箱館並江差近辺探索書」。

新選組の部署と隊士名が記されているようです。

 (すみません、私は未見の為に孫引きです)

「サ丁」と表現した部分は、重ねて一字にされています。

 

上記の松沢さんは、新選組の隊士名簿では 「乙造」 と記載されています。

年齢不詳なのですが、「守衛新選組」として歳様と行動をともにしていた模様。

この方も 「丁サ」 にいたのですね。

歳様の身のまわりのお世話をしていたのでしょうか。

あ、お宿の 「警備担当」 という意味かな。

名簿には鉄君のお名前がないのですが…

箱館奉行所にいたのか、病院詰めだったのかなぁ。

それとも「警備」ではなく、常に歳様の傍にいたのか。

と、想像が広がります ニコニコ

 

部署を見ると、

東組 七人宛一番

東組二番 小駒回道

西組一番 七人称名寺屯

西組二番

番兵取締り

沖之口取締

山の上、山瀬泊見廻り

秋田屋敷請取

と書かれています 筆

 

引用部分の3名は、東組一番の7名のうちの3名と思われます。

箱館市中を東西をに分け、さらにそこを2組で交代に取り締まっていたのでしょうか。

西組一番」の7名が称名寺の警備を担当していたと思うのですが、その中に「大庭久輔」の名前があります。

この方は「箱館脱走人名」に新選組隊士とされるものの、新選組の各種隊士名簿にはお名前がないために、在隊が疑問視されていました。

大庭さんは会津藩士で回天隊士だったのですが、いつからか新選組に入隊したのですね。

ただ、割りと箱館政府に批判的だったようで… アセアセ

かつ病身でした アセアセ

最期は松前の町医者のお世話になっていました。

しかし新政府軍の進攻によって、箱館軍は松前から撤退します。

取り残された形となった彼は、自刃したということです。

 

あと苗字のない人たちが9名います。

直次郎」とか「清吉」とか「亀吉」とか…

歩卒の人たちでしょう。

この名簿はもちろん名前が少し間違えているのも多々あるので、もしかしたら「亀吉」さんは、明治2年7月に佐藤家を訪れた「亀太郎」さんかもしれませんね。

彼らは、「山瀬(背)泊り見廻り之内三浦松五郎へ附添」とされています。

三浦さんは歩卒から「並士官」に取立てられた人。

彼が率いて、箱館山裏手の山背泊を見廻っていたようですね。

 

しかし。。。

内部事情が丸洩れ びっくり

まぁ、だからこそ当時の新選組の様子が垣間見れるのですが…

なんとなく複雑な心境ではありますタラー

 

なお、この報告書が筆写されたのは旧暦での3月6日です

ただ書かれた時期はこの頃ではないか、

という事でご紹介しました 筆

 

 

   2019年3月9日  汐海 珠里