頑張れ支線(盲腸線)の旅⑸南海高師浜線② | としのブログ

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伽羅橋と高師浜



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伽羅橋駅の駅舎です、開業当時は当然地上駅でしたが、国道26号線(現 府道204号)の踏切が混雑するため1970年(昭和45年)高架されました。


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周りは結構大きい家が建っていましたが、駅前の商店街がシャッター街になっていました、昔はきっと栄えたのでしょうね、時代には逆らえませんね。


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近くには、カステラの銀装さんの羽衣工場があります。

さてさて伽羅橋(きゃらばし)なんて変わった駅名ですね。
駅名の由来は、旧紀州街道の芦田川に架かっていた橋の名前が「伽羅橋」でそこから取ったようですが、この「伽羅橋」は江戸時代からここに木の橋が架かっていて香木の「伽羅」で出来ていたと言われています。


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その後、1865年(元治2年)に石橋に架け替えられましたが、その石橋も1988年(昭和63年)役目を終え、堺泉北臨海コンビナートの高砂公園内に移設され余生を過ごしています。


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伽羅橋が架かってたと思われる場所です、正面の道が旧紀州街道です。


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伽羅橋の説明板です。


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ここに踏切があったので、混雑したのでしょう。


さあ伽羅橋を訪ねて見ました。
臨海コンビナートの中にある高砂公園にあります。
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江戸時代後期に作られた伽羅橋です。

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うーん、味ありすぎ。

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多くの方々が大阪から和歌山へ、和歌山から大阪へ行き来したのでしょう。

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1988年(昭和63年)まであったなんて驚きですね。


脱線し過ぎなので高師浜線に戻ります。



伽羅橋駅を出て、終着の高師浜駅に向かいます。




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高師浜駅に到着です。


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駅の構造は、1面1線だが、将来的に1面2線に考えているようだが、今のところ見通しは無いらしい。


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自動販売機が雰囲気を台無しにしている感はあるが、どこか昭和の風を感じる駅舎である。
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駅舎の中の上部にある窓にはステンドグラスが有る、昭和を飛ばして大正の風を感じる。


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横から見る駅舎も中々で、窓の形が時代を感じる。

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駅のホームの下には、地上時代のホーム跡がありました。


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高師浜駅前には、ロシア兵収容所の案内板が立っています、跡地に建てられ周辺の住宅が綺麗に整然と並んでいるのは、当時の建物の区間の名残りと説明しています。


さてさて、高師浜の由来ですが、元々は堺市の石津川から高石市、泉大津市までの海沿いには松原の浜が続いていました、その浜の事を高師浜と呼んだそうで、元々はこの辺りの豪族の名前だったようです、その高師(たかし)が鈍って高石になったようです。

支線と言えどもこの辺りの大切な足になっており、1日の乗降客数は1500人と意外に多いです。

これで南海高師浜線の旅も終わりです。